『家康、江戸を建てる』

門井慶喜『家康、江戸を建てる』(祥伝社、2016年)は現代の東京に通じる江戸の街を作った要素を技術に着目して語る歴史小説である。直木賞にノミネートされた。冒頭では江戸に将来性を見出だした徳川家康の先見性と人材抜擢の妙が描かれるが、主役は技術官僚や技術者達である。政治や戦争ばかりが歴史ではないことを示す。

技術官僚の果たした役割は大きいが、その名前はあまり知られていない。当時においても石高は低かった。しかし、そこに統治の妙がある。官僚は裏方に徹してこそ上手く回る。本書でも大久保長安の死後の没落が言及される。大久保長安は技術官僚の分を越えて驕っていた。これは現代日本の官僚政治の行き詰まりも示している。

江戸幕府は各大名に江戸城の普請を命じた(天下普請)。これは大名間で競いあう形になった。加藤家と浅野家の石垣作りの逸話は本書でも言及されている。一方で本書は現場レベルでは排他的な競争関係ではなく、ノウハウを共有していたとする。死者が出るような過酷な工事では逆に競争する余裕がないという(295頁)。

全体最適のために協力しなければならないというような上からの強制なしに現場レベルで協力がなされている。ここには競争社会から共生社会に転換するヒントがあるのではないかと感じた。

『「食べ方」を美しく整える』

小倉朋子『「食べ方」を美しく整える 仕事ができる人ほど大切にしたいこと』(実務教育出版、2016年)は食事マナーの書籍である。食事マナーの奥深さを実感した。目から鱗の指摘も多い。

たとえば本書は飲み会での「取りあえずビール」の風潮を否定する。人それぞれ飲みたいものがあるためである(19頁)。しかも本書は「取りあえずビール」が飲食店にも失礼になると指摘する。「メニューをしっかり読むことは飲食店に対する客側のエチケット」だからである(21頁)。

むしろ、世の中には注文をとる店員を待たせないために、取りあえず人数分のビールを注文することが店への親切になるとの勘違いがないか。考えてみれば、それはメニューを用意している店に失礼である。メニューをじっくり読んで注文することが店へのマナーとの指摘は、消費者の選択権を重視する私にとって嬉しいものである。

マナーは基本的に相手への配慮で成り立っている。たとえばナイフを置く時は刃を自分の側に向ける(85頁)。ここから文筆のマナーで追伸は失礼とされることを思い出した。追伸は手紙を書き直す手間を省くことになり、そこまで手間をかける相手ではないと相手を侮辱することになる。マナーは無意味な形式主義ではなく、具体的なマナーである。

食器やテーブルを傷つけないことは最低限のマナーである。意外なことに飲食店側にとって一番困るものは男性の腕時計という。大きくて重い腕時計がテーブルの縁に当たり、傷つくことが多いという(95頁)。食事マナーと成金趣味は全く異なる。

この手の書籍には成金趣味的なものもあるが、本書には料理の値段と品質が比例するという類の浅ましさはない。また、旧時代の作法の復権を押し付けるものでもない。むしろ市民感覚に即した内容である。たとえばストレスオフのために一人ご飯を薦めている(23頁)。一人ご飯のストレスオフがあるから、コミュニケーションの場としての食事が成り立つ。

本書は「終わりよければすべてよし」との言葉にも異論を唱えている。最後に帳尻を合わせるのではなく、自然に良い終わり方になるような進め方が大切とする(110頁)。実は私は「終わりよければすべてよし」の言葉が嫌いである。途中経過が悪ければ、それを誇りに思うことはできないためである。結果オーライが無責任体制を作り出し、後日の大失態を招いた例は枚挙に暇がない。しかし、本書のような解釈は肯定できる。

『詩人と狂人たち』

ギルバート・キース・チェスタトン著、南條竹則訳『詩人と狂人たち 新訳版』(創元推理文庫、2016年)は詩人画家カブリエル・ゲイルを主人公としたミステリー短編集である。原題は『The Poet and The Lunatics』であり、原語通りの邦題である。

ゲイルが探偵役になって謎を解き明かすが、一般の推理小説とは趣が大きく異なる。普通の発想では解き明かすことができない謎を解き明かす。犯行の動機も斜め上のものである。世の中を逆立ちして見ることで真実をつかむ。非常に逆説的である。

正統派的な推理小説では犯行は壮大な復讐劇であることが多い。犯罪を正当化するものではないが、犯人にも同情できる点があり、何よりも犯人も我々と同じように憎むべきものを憎む人間であることを示している。しかし、現実の犯罪はもっと非合理な動機で動くことも多い。故に本書に逆にリアリティーを感じてしまった。

本書では狂人と表現されるが、むしろ人間らしさを感じた。その典型は「紫の宝石」である。小市民的生活に価値を見出だすことが常識人からは狂気の沙汰に見えてしまう。一体どちらが正常で、どちらが異常なのか考えさせられる。そして最後の「冒険の病院」では人を異常と決めつけることの恐ろしさが描かれる。

著者はコナン・ドイルらと並ぶミステリーの古典作家である。本書の面白さは正統派推理小説のパターンが前提としてあり、そこから逸脱しているところにあると見ることも可能である。正統派推理小説に対するメタフィクションと見ることも可能である。それを1929年という晩年の作品とはいえ、古典作家が書いてしまうことに巨匠の引き出しの大きさを感じる。

『2010年宇宙の旅』

アーサー・C・クラーク著、伊藤典夫訳『2010年宇宙の旅』(早川書房、1984年)はSF作品の金字塔『2001年宇宙の旅』の続編である。本書は1982年に刊行された。2010年を追い抜いた現代で読むと20世紀の作品としての時代制約と、それにもかかわらず新しさを見出すことができる。

まず人類は月に一度行ったきりである。そのアポロ計画でさえ捏造説が流布している。木星有人旅行は夢のまた夢という感覚がある。また、本書では未だにソ連が存在し、米ソ二大国時代になっている。この点は20世紀のSF作品と現実の最も大きなギャップだろう。

一方、知性を持つコンピュータHALは、作品刊行時は遠い未来の話に聞こえたが、近年の人工知能や機械学習の発達によって現実味を増している。物語では登場人物がHALに対して正直に話すべきと主張する。「われわれが知るかぎりの真実をあらいざらい話すことです。嘘はいかん。半面だけの真実も。これは同じくらい始末がわるい」と語ります(297頁)。

私は半面だけの真実を伝えることが嘘を伝えることと同じくらい悪いとの指摘に全面的に同意する。利益となる事実を説明されたが、不利益事実を説明されずにマンションをだまし売りされた経験があるためである(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。

人間に対するように人工知能への対処を求める主張に面白さを感じた。間違ったインプットからは間違ったアウトプットが出てくるものであるから、人工知能に正しいインプットを与えることは機械への対応としても正当である。

本書の未来予測が当たっているものもある。「この四半世紀のうちにタッチ・パッドが全面的にボタンに取って換わってしまった」とある。続けて「しかし必ずしも万能というわけでもなく、カチリという小気味よい音とともに、動作したことがはっきりとわかる装置も、要所要所で役立っている」と書く(305頁)。この指摘はスマートフォンやタブレットが普及する一方で、キーボードはなくならない現代と重なる。何気ない描写であるが、本書が優れたSF作品であることを実感した。

『緑の資本論』

中沢新一『緑の資本論』は貨幣を中心に据えた『資本論』を、一神教的に再構築した書籍である。著者は宗教学者であるが、本書の射程は経済社会全体に及ぶ。

本書はキリスト教とイスラームは同じ一神教であるが、その経済思想が異なると主張する。キリスト教は三位一体説によって、増殖を容認し、資本主義と極めて親和的であると主張する。プロテスタントの思想が資本主義を推進する基盤になったとのマックス・ウェーバーの主張は有名である。それ以前からキリスト教には資本主義と親和的であったとの主張は興味深い。

これに対してイスラームは唯一神信仰を徹底するために利子を厳禁する。このためにイスラームは資本主義批判の思想を有していると主張する。本書は911同時多発テロ事件の衝撃を受けて執筆されたものである。そのためにキリスト教世界とイスラーム世界のギャップを理解する上で優れている。しかし、テン年代後半の2016年から振り返ると、本書も時代制約を免れないという思いがある。

たとえばドバイの繁栄を見れば「イスラームは資本主義を嫌悪し、自分たちの世界にそれが侵入してくることを、重大な悪ととらえるだろう」とは言えないのではないか。それどころか、イスラーム原理主義も経済政策は新自由主義と親和性がある。原点に戻るという意味での原理主義であるサラフィー主義は夜警国家的である。

イスラーム原理主義勢力としてはハマスやムスリム同胞団が有名であるが、それらからイスラーム原理主義を論じることは正確ではない。ハマスやムスリム同胞団は教育や医療、福祉などの活動を熱心に行う点で原理主義の中では異端であるためである。「ムスリム同胞団は、国際共産主義運動のイスラム版とでもいうべき国際政治運動」との指摘まである(田中宇『田中宇の国際ニュース解説』「プーチンとトランプがリビアを再統合しそう」2016年12月8日)。

原始キリスト教団と共産主義の類似性は納得できる。しかし、それと同じものをイスラームにも見出せるかは、もっとサラフィー主義を研究する必要があるように思える。あくまで資本主義対反資本主義の枠組みで考えるという話ならば、冷戦時代の思考から抜け出せない時代制約を感じてしまう。

『再開発は誰のためか』

岩見良太郎『再開発は誰のためか 住民不在の都市再生』は再開発の問題を明らかにした書籍である。著者は埼玉大学名誉教授である。再開発は不動産業者やゼネコンの金儲けのためにあることを明らかにしている。しかも、その金儲けは住民の犠牲の上に成り立っている。

問題は不動産業者の金儲けが公正な市場競争で得られたものではないことである。再開発には補助金という形で税金が出される。補助金がなければ再開発は事業として成り立たないとまで指摘している。

さらに再開発ではルールが開発業者が儲けやすいように変更される。まさに再開発は業者の金儲けのためにある。これは自力で商業施設などを運営する健全な業者を競争上不利にするため、市場を歪める。このような不公正なことが許される理由は再開発に公共性があるという建前のためである。

これに対抗するために本書は住民本位の公共性「まちづくり公共性」を志向する(130頁)。これは議論として筋が通っている。一方で、それが現実的な解決策になるかというと一抹の不安がある。日本は明治以来、企業の発展が社会の発展という考え方できている(後藤道夫『ワーキングプア原論──大転換と若者』花伝社、2011年、58頁)。それは戦後になって、むしろ一層強まった。故に企業を儲けさせることが公共に資するという考え方は根強い。住民個々の権利を尊重し、安易な公共性主張を許さない方向も一案ではないか。

地図学習を見直そう

古今書院『地理』2016年11月号は「地図学習を見直そう」を特集する。ここで取り上げられた地図学習は一方的な講義ではない。学習者が主体的に地図を読み取る活動である。私の学生時代の地理は教科書や資料集を読み、知識を入れるというイメージであった。それは私にとっては楽しいものであったが、暗記物と嫌う人も少なくなかった。本書は地理が無味乾燥な暗記物ではないことを教えてくれる。

本書にはドローンによる地形の撮影の記事もある(田中圭「低空撮で使える工夫、様々なドローン」)。ドローンと言えばマルチコプターが有名であるが、記事では固定翼機や水中ドローンも紹介する。将来は学校教育でドローンを使った地形の撮影を行うことがあるかもしれない。学校教育が楽しくなる。

危険性が指摘され、沖縄県では激しい配備反対運動が起きているオスプレイと同じ垂直離着陸機(VTOL)のドローンもある。回転翼から固定翼への「切り替え時は機体のバランスを崩しやすい欠点があり、操縦は簡単ではありません」という(71頁)。この点は未亡人製造機と呼ばれるオスプレイと重なる。

『天空の標的2 惑星ラランド2降下作戦』

ギャビン・スミス著、金子浩訳『天空の標的2 惑星ラランド2降下作戦』(東京創元社、2016年)はSF小説である。主人公はサイボーグ化された兵士で、敵支配惑星ラランド2への潜入偵察と破壊工作という困難な任務を命じられる。タイトルや表紙イラストからは降下作戦がメインのように見えるが、実はそれほどでもない。本書は物語途中の巻であり、全体ストーリーの方向性は見えない。

本書の世界では人体がサイボーグ化されている。正直なところ拒否感がある。一方で現代でも義肢などによって救われている人々がおり、頭ごなしにサイボーグ化を否定することはできない。他人の臓器を用いる臓器移植の方がサイボーグ化よりも残酷と見ることもできる。

衝撃的な描写は小惑星の鉱山地帯である。大企業が労働者を搾取している。前近代的な鉱山労働者のようなイメージである。宇宙空間は、そのままでは人が生きていくことはできない。生活空間さえ企業が提供したものになる。だから企業の横暴も増す。何しろ反抗的な労働者は宇宙空間に放り出される。労働者は放射線を浴びて健康を損なう。これは原発作業員と重なる。

私は土建利権や官僚支配を打破するために新自由主義思想を評価しているが、本書のようなSF小説を読むと新自由主義の行き着く先に恐怖を覚える。古典的なSF小説ではディストピアは全体主義の管理社会であった。それは現実社会への警鐘であり、だからこそ私は国家権力の縮小を主張する新自由主義に共感するところがあった。しかし、本書のような新しいSF小説を読むとディストピアが変わってきているのではないかと感じる。

『長生きしたけりゃ、今すぐ朝のパンをやめなさい』

永山久夫『長生きしたけりゃ、今すぐ朝のパンをやめなさい。病気にならない“朝和食”のすすめ』(PHP研究所、2013年)は和食の良さを主張する書籍である。著者は食文化研究家である。

パンよりもご飯、洋食よりも和食が健康に良い。米を粒で食べるご飯は脳の活性化をスピードアップする。味噌汁、納豆、豆腐、生卵、海苔、焼き魚、つくだ煮などの和食メニューも幸せ物質・セロトニンの原料となるアミノ酸やビタミン類が豊富である。

本書は和食の薀蓄も豊かである。和食は日本人が過去より受け継がれてきた文化である。稲作民族の日本人は、麦よりも米の方が適している。日本には米でスタータスを定めた石高制というユニークな歴史を有している。

米という自給可能な立派な主食がありながら、減反してまで他国でとれた小麦を主食とすることは愚かしい。医療は進歩したとされるが、日本人の健康レベルは悪くなっているように感じる。そこには欧米型食生活の影響もあるだろう。

本書のメインタイトルは『パンをやめなさい』であるが、どちらかと言うと趣旨は「パンがダメ」よりも「ご飯が良い」である。しかし、フォーブス弥生著、稲島司監修『長生きしたけりゃパンは食べるな』(SBクリエイティブ、2016年)のようにパンの害を正面から説く書籍も登場している。共に食生活をパンから米にシフトしたくなる書籍である。

『長生きしたけりゃパンは食べるな』

フォーブス弥生著、稲島司監修『長生きしたけりゃパンは食べるな』(SBクリエイティブ、2016年)はパン食が健康を害すると指摘する衝撃的な書籍である。タイトルの通り、パンを食べないことを提唱する。

ご飯に比べるとパンは手軽なイメージがあり、パン食を好む人もいるのではないか。しかし、原因不明の体の不調はパン食が原因かもしれない。小麦に含まれるタンパク質「グルテン」は脳に炎症を起こし、腸に小さな穴をあけてしまう。パン食によってグルテンを大量に摂取することになる。そこで本書は小麦抜き生活「グルテンフリー」を提唱する。

現代人に広がる体の不調の原因がパン食にあるとの指摘は納得できる。日本のパン食普及は敗戦後である。アメリカ産小麦の輸入国にするための陰謀論まである。パン食の普及と並行として、慢性的な体の不調も現代人に見られるようになった。

恐ろしい点はグルテンに依存性があることである。だから一定の期間、パンなど小麦を食べることを絶つ必要がある。これは危険ドラッグなど依存性薬物の治療と同じである。逆に一定期間パンを絶つとパンを食べたいという気持ちがなくなるという。

実は食事による健康法を説く最近の書籍では依存症や中毒性がキーワードになっている。塩分取りすぎを戒める書籍では塩分には依存性があると指摘する(島田和幸『専門医が教える高血圧でも長生きする本』幻冬舎、2016年、68頁)。

糖の取りすぎを戒める書籍でも糖に脳内麻薬分泌による依存性があると指摘する(西脇俊二『難病を99%治す技術』実務教育出版、2016年、21頁)。危険ドラッグ吸引者が激辛の四川料理に病みつきになるなど薬物中毒が味覚をおかしくするとの指摘もある。中毒、依存性問題を真剣に考える必要がある。

『お金持ちのための最強の相続』

田中誠『お金持ちのための最強の相続』(実務教育出版、2016年)は相続についての書籍である。著者は相続専門税理士である。本書は駅伝式相続法を提唱する。相続を駅伝(リレー)、相続財産を「たすき」に見立てる。被相続人だけが頑張っても成功しない。残す側と受け取る側がリレーのように協力し、たすき(相続財産)を渡し続けてこそ成功すると指摘する。

この指摘に共感する。相続に関する書籍は被相続人に向けたものが多い。これは相続対策を遺言書で終始させる傾向がある。しかし、相続の主体は相続人であり、現実には遺言書だけで解決しないことが多い。逆に死後初めて分かるような遺言書で相続対策できると考える方が目出度い。残す側と受け取る側双方の協力を必要とする本書の視点は正しい。

一方で相続には駅伝と違う点がある。駅伝は一人が一人に渡すが、相続は渡す相手が複数人いる場合がある。どう分けるかが問題になるし、それが相続紛争に発展する。本書は税理士が著者であり、相続税対策がメインである。「どう分けるか」は主題ではないが、それでも事業承継をする長男の総取りとさせないなどの一定の公平さを有している(49頁)。

本書は銀行や不動産業者、保険会社などの相続ビジネスの問題を指摘する。これら相続ビジネスをヤジと言い切る(第2章「「沿道のヤジ」に振り回されると資産を失う」)。正直なところ、私は相続のハウツー本に胡散臭さを抱いているが、このような記述があることは信頼できる。

相続対策の不動産経営は社会問題になっている。賃貸経営のための集合住宅の建築費が普通の建物と比べて割高であることは聞いていたが、本書は「統一されたブランドなので、市場価格の何倍もの建築費用がかかる」と指摘する(66頁)。普通の工業製品ならば規格化によって生産コストを下げる。ところが、賃貸住宅は逆になる。建築不動産業界の暗部を確認した。

『死の自己決定権のゆくえ』

児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店、2013)は死の自己決定権が医療サイドによって剥奪される問題を告発した書籍である。

死の自己決定権と言うと安楽死や尊厳死を求める自由として扱われることが多い。しかし、実は医療費削減という患者とは無関係な動機がある。著者は「尊厳死の法制化とは結局のところ、国が社会保障費を削減するために、高齢者、障害者、貧乏な人たちに、自らの意思で医療をあきらめてさっさと死んでください、という意図のものなのだろうか」と嘆息する(23頁)。

現実にイギリスでは「無益な治療」をしないとの名目で、患者の意識がはっきりしていて本人も家族も蘇生を望んでいるケースでも、医師が勝手に判断して治療を行わなかった事件が起きている(84頁)。

死なせる医療を制度化してしまうと医師は慣れてしまい、抵抗を感じなくなる(88頁)。この指摘は私も納得である。ただでさえ医師は多くの死を体験するため、患者の家族とはギャップがある。治療をするよりも死なせる方が病院にとって手続きが楽になるような制度設計をしてはならないだろう。

そもそも植物状態についての認識を改める必要がある。植物状態は意識がない状態ではなく、単に意思を伝えられない状態かもしれない。それを無価値な人生であると他人が決め付けることはできない。本書では足を蹴る、瞬きをする、手を握るなどの行動で意思疎通を感じた例を紹介している(110頁)。

ところが、それを「非科学的だ」と頭から否定する傾向もあるという(111頁)。量子力学の不確定性原理がメジャーになっている時代に、物理法則で説明できないことは認めないという姿勢こそ、どうしようもなく非科学的に見える。

安楽死や尊厳死を安易に認めることは弊害が大きい。一方で安楽死や尊厳死を望む人がいるならば、弊害は理由にならない。弊害が生じないような実施を模索すべきであり、弊害があるから一律禁止とすることは官僚的な思考である。

それでも安楽死や尊厳死の権利自体を認めることに躊躇がある。健康な時に安楽死や尊厳死を望んでいたとしても、その状態になったら「死にたくない」と思っているかもしれない。しかし、それを取り消す意思表示ができない。これは殺されることに近い。

書評『光芒』

矢月秀作『光芒』(幻冬舎、2016年)は裏社会を描いた小説である。暴力的な描写も多い。昭和のヤクザ物のような任侠の美学はない。本書で描かれるヤクザの世界は親分が器量のある子分を排除しようとする世界であり、ヤクザ世界に仁義はない。

冒頭は格差社会の犠牲者が視点人物になる。彼の救いになる展開であるために、主人公サイドにあまり悪質さを感じさせない構成は巧みである。しかし、実際はかなりの悪である。暴力団を抜けてからの裏稼業の方が堅気に必然的に迷惑をかけるものであり、ヤクザよりも悪質である。このために筋を重んじる任侠物を嫌いでない身には、あまり感情移入できない。

ブラック稼業から完全に足を洗いたいと言ったところで、これまでの所業からすれば虫が良すぎると感じる。過去の怨念に直面して若い頃にもう少し「自分」や「生きる」ことを真面目に考えていればと述懐する(313頁)。それは正しいが、そこでも存在するものは自分だけである。他者性はない。とは言えラストは疑似家族のために自己犠牲的な振る舞いをしており、ヤクザ以上に任侠らしいところもある。

本書の裏社会に感情移入しにくい理由は生き方に華がないためである。幹部クラスの人間がワンルームマンションに住む(118頁)など格好よくない。何のために男を売る稼業をしているのか分からない。そこしかないという消極的選択か。

本書は任侠物とはかけ離れているが、ヤクザと半グレ・ヤンキーの線引きはしている。半グレ・ヤンキーが元ヤクザを複数人で襲撃したが、返り討ちに遭う。ここにはリアリティーを感じた。裏社会から離れて数年経つ元ヤクザでも、半グレ・ヤンキーとは格が違う。半グレ・ヤンキーはどこまで行っても、社会の害悪でしかない。

書評『7色野菜の便利図鑑』

植木美江『7色野菜の便利図鑑』(幻冬舎、2016年)はイラストレーターによる野菜料理の書籍である。色を切り口にして野菜料理をまとめている。七色と言っても虹の七色(赤橙黄緑青藍紫)ではない。赤橙黄紫緑白黒である。さらに「プラス1カラー」として桃色や茶色などを紹介する。色を切り口にしているだけあって全編カラーである。これだけ様々な色の野菜があることに驚いた。

料理は目でも味わうことができる。実のところ、私は料理を目で味わうことに必ずしもポジティブな印象を持っていなかった。色合いで食品を選ぶということは、着色料をふんだんに使っているものを選択することになりかねないためである。本書のような自然の色を楽しむならば大歓迎である。

印象的な著者の発言に「40過ぎると肉より野菜が食べたい」がある(5頁)。これは私も納得できる。私は子どもの頃から肉が好きだった。今でも他の人と比べれば肉好きになるだろうが、それでも最近は野菜も好むようになった。

著者は東京都小金井市在住である。小金井は東京といっても自然がたくさん残る街という(2頁)。農家もある。著者が野菜オタクになった背景には、この小金井の環境がある。人はコンクリートジャングルではなく、土の上でこそ生きられると感じた。

書評『激しき雪 最後の国士・野村秋介』

山平重樹『激しき雪 最後の国士・野村秋介』は民族派右翼の巨魁・野村秋介氏の人生を描いたノンフィクションである。タイトルの「激しき雪」は野村氏が獄中で詠んだ句「俺に是非を説くな 激しい雪が好き」に由来する。まさに激しい雪のような人生であった。

野村氏の姿勢は権力や大企業の犬となっている所謂一般的な右翼とは全く異なる。本書も「自民党・財界を補完する形で戦後体制の強化に貢献してきたポツダム右翼を撃つ」という意識があったと分析している(207頁)。

実際、野村氏が起こした経団連襲撃事件では大企業の経済至上主義を批判している。檄文では「環境破壊によって人心を荒廃させ、「消費は美徳」の軽薄思想を蔓延させることによって、日本的清明と正気は、もはや救い難いところまで侵食されている」と訴える(209頁)。このような右翼思想は大きな意味がある。というのは左翼思想には分配の公正を重視するが、そのためには分配するための果実が必要であり、経済至上主義を必ずしも否定しないところがあるためである。

野村の弟子達による住友不動産会長宅襲撃事件も痛快である。地上げ屋などを使って狂乱地価を招いた元凶と告発した(180頁)。この事件は犯罪として処理されたが、地上げを社会問題として認知させることに寄与した。私は大手不動産業者と不動産購入トラブルの経験があるため、非常に共感できる。

本書には官僚主義の救い難さも描かれている。フィリピンのゲリラの人質となったカメラマンの石川重弘氏を野村らが解放交渉で解放に成功する。日本大使館員は人質解放に何の役にも立たなかったばかりか、解放後に石川氏に「パスポートを持っているか」と質問するなど犯罪者を扱うような態度であった(160頁)。野村氏が怒って大使館員へのカメラマンの身柄引き渡しを拒否したことは当然である。

この事件は日本人が海外の武装勢力の人質になったという点でイラク人質事件と共通する。そこでは右と左で意見の溝が生じた。フィリピンの事件で民族派右翼がイラク人質事件のような自己責任論をとらなかったことは興味深い。

一方でフィリピンの事件では石川氏は「自分で蒔いた種は自分で刈りとる」覚悟を持っていた(157頁)。また、イラク人質事件のように人質に同情的な人々が日本政府に自衛隊撤退を要求することはなかった。ここが相違点と言えるかもしれない。

野村氏の面白いところは左翼側にも人脈が広がり、共闘していることである。単なるイデオロギー対立に囚われていない。この右翼と左翼の共鳴は教条主義者からは批判の対象になるが、安保闘争当時の全学連委員長を描いた佐野眞一『唐牛伝 敗者の戦後漂流』でも指摘されている。昔の右翼も左翼も型破りだったと言えるかもしれない。これに比べると昨今の野党共闘の動きは狭い世界の共闘に見える。

書評『フリーライターとして稼いでいく方法、教えます。』

肥沼和之『フリーライターとして稼いでいく方法、教えます。カネなしコネなし実績なしが年収800万円に一変した泥臭い£エ実践法!』(実務教育出版、2016年)はタイトルの通り、フリーライターとして活動する方法を説明する書籍である。著者はライターである。特別なコネクションも実績もないところからライターになっており、その内容には説得力がある。

この手の書籍は著者自身の成功体験や失敗体験を語る半生記という側面がある。演繹的に導き出されたノウハウよりも、個人的経験に裏打ちされたノウハウの方が響きやすい。また、読み物としても抽象的な技術論よりも、むしろ独特な人生経験の方が面白い。そのためにハウツー本と銘打ちながら、あまりハウツーを教えない書籍もある。それはそれで書籍として成立するが、本書はバランスが取れている。

本書は著者自身のライター経験を語る一方で、文章講座や企画の案出法も書いている。ライターになりたい人にとって実践的な書籍である。しかし、最も面白いものは著者の思いである。本書の最後に著者が共感するインタビュー相手の話がある。ファッション誌のような生活に憧れていたが、そのような生活を送ろうとしても幸せとは感じなかったという(181頁)。

この話は私も共感する。高級品や流行品に囲まれる生活、普通の人が持ちたいと思う物を持つ生活が羨ましいとは全く思わない。疲れるだけである。ところが、日本社会には自分にとって楽な生活を送ることが許されない息苦しさがある。夏目漱石が『草枕』で「兎角にこの世は住みにくい」と嘆息した通りである。この矛盾だらけの社会では物書きになるということは一つの生き方になるだろう。

書評『視えない世界はこんなに役に立つ』

冨山詩曜『新しい考え方 視えない世界はこんなに役に立つ あなたの人生クオリティを《超拡張する》その仕組み』(ヒカルランド、2016年)は超能力や霊の世界について解説した書籍である。そのようなものは存在しないと頭ごなしに否定する人々もいるが、本書の内容は説得力がある。

そのようなことはないと思っていると超能力は発現しないし、霊とも交信できない。超能力の本質が人の思う力であることを考えれば、この説明に納得する。これはスプーン曲げなどの超能力を普段披露している人が衆人環視の公開実験で失敗しがちになることも説明できる。超能力に否定的な人々の意識が実験の成功を妨げるためである。

本書の面白いところは霊が録音テープに声を吹き込むなど科学技術を駆使していることである。オカルトを科学技術の対極にある前近代の遺物というステレオタイプを打ち砕いている。もともと錬金術は最先端の科学技術とオカルトの融合であった。文明の発達したヴィクトリア朝英国は空前の心霊ブームが起きた。科学の発達がオカルトをなくしていくという考えが二十世紀の特殊な科学信仰と言える。本書でも紹介されている量子力学の不確定性原理は、むしろオカルト的な理論である。オカルト否定の科学信仰が実は最も非科学的と言える。

本書で考えさせられた点は霊が死後も生前の病気などの痛みを抱えているとの指摘である(207頁)。病気などで痛みを抱えていた時の精神パターンを死後も引きずるためである。死は苦痛からの解放を意味しない。安楽死は無意味である。一方で緩和ケアは必要である。どうせ死ぬのだから緩和ケアは必要ないという治療方針では、患者は死後も苦しむことになる。

霊が必ずしも普遍性を持った高次なものではなく、生前の精神状態を継承しているとの説明はリアリティーがある。これによって怨霊の存在を説明できる。危険ドラッグなどで精神が錯乱して亡くなった人は死後も錯乱したままになってしまうだろう。薬物乱用者は死後も救われない。

さらに「死んだアルコール依存性患者、麻薬常用者、殺人者、その他の凶悪犯罪人の霊は、地球上の自分と似たような性質を持った人間や意志の弱い人間に引き寄せられ、自分たちが常時行っていたような悪事を促します」(225頁)。死後も世の中に迷惑をかけることになる。本書は人間の精神の力の素晴らしさを語るが、精神を壊す薬物の恐ろしさも感じた。

書評『大東亜の嵐』

西山進『大東亜の嵐 誰も語らなかった真実の満洲と日本軍』(明窓出版、2016年)は汪兆銘政権樹立の立役者である影佐禎昭・陸軍中将(最終階級)を中心として十五年戦争を振り返るノンフィクションである。この影佐禎昭中将は谷垣禎一・元自民党総裁の祖父でもある。

本書は十五年戦争を植民地解放の観点から描いている。この歴史認識には賛否両論があるだろうが、左翼イデオロギー優勢の子ども時代を過ごしたロスジェネ世代の私にとっては新鮮な内容があった。

本書に対しては歴史美化と批判されるかもしれないが、無条件に美化するだけではない。軍上層部の無能、無責任を克明に描いている。軍上層部の希望的観測に基づく無能、無謀、無責任な作戦により、甚大な人命や資源が浪費された。

戦後日本も戦争こそしていないものの、無能、無謀、無責任な計画の強行により、大型開発の失敗、税金の無駄遣い、企業不祥事が続いている。戦後日本は平和主義によって再生したが、逆に戦争さえしないことが戦前の決別になると安易に考え、上層部の無能、無謀、無責任な体質への反省が不十分であったのではないか。だから逆に本書のような歴史認識の方が無能、無謀、無責任体質の問題提起になるのではないか。

本書は満州国や大東亜戦争には頭ごなしに否定されるだけではない理想があったとするが、実体には様々な問題があったことも直視する。その中でも最大の問題は満州国の経営が依存性薬物の阿片(アヘン)で成り立っていたことである。そこには何の倫理性もない。阿片は近代中国を蝕んだ害毒である。阿片戦争は近代中国の屈辱と苦難の歴史の出発点である。

一方でシャーロック・ホームズに描かれているように阿片は当時のイギリスでも普及していた。本書では何故、中国で阿片が深刻な問題になったかを説明している。そこには阿片の摂取方法の差異がある。欧米では経口服用中心であったが、中国は喫煙中心であった。喫煙は「経口服用に比べ即効性が強く、より依存性を生じやすかった」という(64頁)。

一見すると口の中に入れることと煙を吸うことでは前者の方が危険そうであるが、実は煙の方が脳に直接ダメージを与える。これは現代日本で危険ドラッグが深刻な社会問題になっていることと重なる。戦前の反省をする場合、戦争否定以外にも様々な分野で学ぶことがある。

書評『親子経営 ダメでしょモメてちゃ』

大石吉成『親子経営 ダメでしょモメてちゃ 親子だから経営力が高まる本当のこと』(セルバ出版、2016年)は親子経営の失敗原因と対策を述べた経営書である。大塚家具などの「お家騒動」が話題になっており、タイムリーな書籍である。

本書はタイトルに「ダメでしょ」とあるように「これをしたらダメ」のネガティブリスト方式で書かれている。ハウツー本の多くは「これをしよう」というポジティブリスト方式で書かれている。日本人にはネガティブリストよりもポジティブリストの方が前向きで建設的と考える傾向がある。しかし、ネガティブリストは、「それをするな」という禁止事項を書いたものであり、それ以外の行動は自由に任されている。ネガティブリストの方が相手の自由を尊重した姿勢である。

本書は親にも子にも厳しい助言をしている。親子対立にならないために親子の関係性を変えることが大切と指摘する。そのためには親が変わることが近道である(96頁)。親の方が相対的に優位な立場にあるため、この指摘は正しい。

現実問題として親が変わることは難しい。そこで「長年経営をしてこられた頑固な父親より、素直な子供さんから変わってもらうことで、親子の関係性に変化を与えることをより期待しています」と述べる(97頁)。これも親と子のどちらが変わる能力があるかという実現性の観点からは間違っていない。

間違っていないが、それ故に絶望的な気分になる。親の方は子の論理を理解しようとせず、それを周囲からも頑固さや年を理由に容認されがちである。ところが、子には親の論理を理解することが期待される。これは片務的であり、フェアではない。これを当たり前と考えるならば甘えである。

この問題は同族経営に限らない。組織の世代交代、世代継承でも同じである。むしろ、親子ならば甘えも成り立つが、単なる世代対立に置き換えたら、若い世代にばかり期待することは、それ自体が世代対立を激化させる原因となる。

本書は親と子の関係という古くからの普遍的な問題を扱っている。本書は論語をよく引用するが、それも普遍的な問題意識に合っている。一方で現代は変革期にある。昭和が平成になり、20世紀が21世紀になった。金融革命、IT革命、第4次産業革命など産業構造の転換期になっている。

大量生産、大量消費、右肩上がりの昭和の高度経済成長の時代は終わった。昭和の成功体験を抱えた世代と新時代を志向する世代の世代間ギャップは他の時代以上に大きい。世代対立として見れば今日、親子の経営紛争が深刻化することは当然と言える。経営環境の変化を踏まえれば親世代の方こそ変わる必要がある。

子の世代からすれば昭和の経営を続けていれば会社が潰れると思っているために必死である。安易に昭和の経営方針と妥協する訳にいかない。大塚家具の娘社長のように強引に見える改革に走ることも理解できる。親子でもめないためには、本書の説くように子が変わるべきかもしれないが、それは経営の変革から遠ざかることになりかねないという難しさを感じた。

本書は経済変革期への対処という点では物足りないが、それは本書の欠陥ではない。著者は経営コンサルタントであるが、自己が経験した経営者と後継者向けに特化している。サラリーマンの経験がないとして社員研修の依頼を断るほど徹底している(109頁)。自分が語れる分野を語るという姿勢は好感が持てる。

本書は企業不祥事における企業経営陣の無責任さも批判している。違法スレスレ、法の抜け穴を指南するブラックなコンサルタントが横行するなかで、著者は経営コンサルタントとして真っ当である。本書はよく論語を引用しているが、それは形だけのものではないことが分かる。

書評『唐牛伝 敗者の戦後漂流』

佐野眞一『唐牛伝 敗者の戦後漂流』(小学館)は60年安保闘争の頃の全学連委員長の唐牛健太郎を主題としたノンフィクションである。著者はノンフィクションライターである。個人の伝記にとどまらず、時代や社会を描いている。

唐牛健太郎は安保闘争の頃の全学連委員長であるが、「唐牛からマルクスの話を聞いたことがありません」と述懐される(96頁)。唐牛が全学連委員長に推薦された理由も「学生運動ずれしていない、変な政治主義に染まっていない新鮮さ」とする(100頁)。ステレオタイプな左翼教条主義と異なり、興味深い。

本書では唐牛健太郎の生い立ちや両親のことを、当時を知る人を訪ねて明らかにしている。庶子というセンシティブな問題も掘り下げている。この点は好き嫌いが別れるところである。

著者は週刊朝日で連載した橋本徹の人物論が批判され、休筆せざるを得なくなった。本書は復帰第一作になる。本書の冒頭ではハシシタ問題を引き起こした原因を取材現場から足が遠ざかるようになっていたこととする(5頁)。この点で本書は復帰作に相応しい綿密な取材の作品と言えるだろう。

しかし、ある人物の行動や思想を掘り下げる際に彼の生い立ちを明らかにすることにどこまで意味があるかという問題がある。日本のマスメディアには人間ドラマを作り、事件の社会的構造的問題点から目をそらさせる悪癖がある。その話は本題と関係あるかと言いたくなる報道が少なくない。現場を取材して確認した事実だから良いというものでもない。取材そのものが迷惑行為ということもある。

著者は、ありのままの唐牛の姿を知ってもらい、神格化や英雄扱いから解き放つことを意図している(135頁)。その評価は人それぞれであるが、私としては生い立ちのような人生物語よりも右翼と左翼の交流のような昭和史の裏面の記述の方が面白かった。

本書は安保闘争の意義を認めながらも、その後の左翼の偏狭さに批判的なトーンで書かれている。現代の安保法制反対運動についてもSIELDsの登場を評価しつつも、彼らが既成左翼政党に利用されることを懸念する(28頁)。本書には左翼教条主義への強い批判精神がある。

もう一つの特徴は戦前と戦後の連続性を見据えていることである。軍事的な拡張主義が経済成長に置き換わっただけという面がある。「敗戦によって失った満州を国内に取り戻すゲームが高度経済成長だったのではないか」(9頁)。だから個人が全体の発展のために抑圧される状況は変わらない。

本書は安保闘争には旧敵国アメリカの傘下に入るこてはとんでもないというナショナリズムがあったと指摘する。右翼と左翼が交流する一方で、ブントと日本共産党がいがみ合う。私は、この時代に生まれておらず、書かれたものから評価するしかない。現代において相対的に優勢な団体は共産党であるため、必然的に共産党側の文書を目にする機会が多くなる。そのために共産党寄りの視点を抱きがちであった。

しかし、本書を読むと、全学連やブントの側にも義や論理があることが分かる。その主張を完全に奉じて共産党を全否定するつもりはないが、両者が相容れないことは理解できる。それぞれの歴史を背負っている左翼左派がまとまることは難しいのではないかと感じた。

書評『サンカ生活体験記』

矢切止夫『サンカ生活体験記』(作品社、2003年)は日本の謎の民サンカについての研究書である。著者は子どもの頃にサンカで育てられたという。実体験があるところが、本書のユニークなところである。

サンカは原始的な文化と見られがちであるが、その家族形態は核家族である。年老いた親はコミュニティーで面倒を見るという(198頁)。逆に近代的である。農業に対して憧れを抱く向きもあるが、農業が家父長的な家族主義、集団主義を生んだのではないか。

本書は建設業者などは都市に溶け込んだサンカ出身者で占められ、それが談合の温床になっていると主張する(217頁)。彼らにとって談合は悪いことではなく、仲間内の話に過ぎない。サンカの研究はサンカ社会を肯定的に描くものが多いが、小さなコミュニティーの中で妥当性があるものも、もっと大きな社会では不公正になることもある。

本書はサンカという特殊な集団に限定したものではなく、日本史を語るものになっている。それも歴史教科書に書かれた歴史を正とするならばトンデモに属する内容である。それでも本書には頭ごなしに否定できない面白さがある。

著者の歴史観「矢切史観」は隆慶一郎『一夢庵風流記』『影武者徳川家康』の世界観と重なる。『一夢庵風流記』を原作にした漫画『花の慶次』は私の少年時代に大ヒットした。そこで描かれた道々の者の生き方に反骨精神を刺激された人は少なくないだろう。私も間接的に矢切史観にはまっていたことを気付かされた。

ソ連崩壊を目の当たりにして育った私にとってマルクス主義は抵抗の思想として必ずしも魅力的なものではない。少数の支配者に対する、階級的利害を同じくする多数の被支配者という階級闘争がしっくりこないためである。多種多様な人々を被支配者階級とくくることは乱暴であり、被支配者間の利害対立を無視している。それよりは道々の者やサンカのような少数派の抵抗者がしっくりくる。

本書には著者のエッセイ的なところがあるが、現代日本の問題として司法を指摘する。ヤメ検弁護士の横暴(149頁)や書面中心による口頭審理の形骸化(177頁)などである。これらは的を射た指摘である。

林田力

林田力は東急不動産消費者契約法違反訴訟原告である。『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』(ロゴス社、2009年)や『二子玉川ライズ反対運動』シリーズの著者である。東京都生まれ。

Hayashida Riki is the plaintiff Who Fought Against TOKYU Land Corporation. Hayashida Riki is the author of "The Suit TOKYU Land Corporation's Fraud: How to Win" and "The Opposition Movement Against FUTAKOTAMAGAWA Rise"

林田力は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して東京都内の新築分譲マンションをだまし売りされた。東急リバブル・東急不動産は新築マンション引き渡し後に隣地が建て替えられて、日照・眺望・通風がなくなることを知っていたにもかかわらず故意に告げなかった。隣地が建て替えられれば部屋は真っ暗になり、作業所になるため騒音も発生する(山岡俊介「東急不動産側が、マンション購入者に「不利益事実」を伝えなかった呆れた言い分」ストレイ・ドッグ2005年2月21日)。

このために林田力は消費者契約法第4条第2項(不利益事実不告知)に基づいてマンション売買契約を取り消し、売買代金の返還を求めて東急不動産を東京地方裁判所に提訴し、勝訴した(東急不動産消費者契約法違反訴訟、東京地判平成18年8月30日、平成17年(ワ)第3018号)。

判決は以下のように東急不動産の不利益事実不告知を認定した。その上で、東急不動産に売買代金の全額支払いを命じた。

「被告(注:東急不動産)は、本件売買契約の締結について勧誘をするに際し、原告に対し、本件マンションの完成後すぐに北側隣地に3階建て建物が建築され、その結果、本件建物の洋室の採光が奪われ、その窓からの眺望・通風等も失われるといった住環境が悪化するという原告に不利益となる事実ないし不利益を生じさせるおそれがある事実を故意に告げなかった」

この判決は不動産取引に関して消費者契約法4条2項(不利益事実の不告知)を適用し契約の取消しを認めたリーディングケースである(佐藤裕一「東急不動産で買ってはいけない 被害者が語る「騙し売り」の手口」MyNewsJapan 2009年9月3日)。

この東急不動産だまし売り裁判を契機として、インターネット上では東急リバブル・東急不動産に対する批判が急増した。「営業マンの態度が高慢」「頼みもしないDMを送りつけてくる」など「自分もこのような目に遭った」と訴訟の枠を越えた批判がなされ、炎上事件として報道された(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号39頁)。

林田力は2009年7月には東急不動産との裁判を綴ったノンフィクション『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』を出版した。『東急不動産だまし売り裁判』は『別冊サイゾーvol.1 タブー破りの本300冊 サイゾー11月号臨時増刊』(2010年11月1日発行)の「警察、学会、農業……の危険な裏 告発本が明らかにした「日本の闇」」で紹介された。林田力のコメントも掲載されている。

林田力は景観と住環境を考える全国ネットワーク・東京準備会「第3回首都圏交流会」(2009年11月24日)や「もめごとのタネはまちづくりのタネ研究会」定例会(2010年2月5日)でも東急不動産だまし売り裁判を報告した。第2回「都民参加への模索」研究会(2013年5月27日)では「開発問題から考える東京都政の課題」を報告した。

都政わいわい勉強会in東部地区「貧困問題を考える その2 ブラック企業・ワーキングプアを考える」(2012年12月1日)では「東急のブラック企業問題」を報告した。「都政わいわい勉強会in東部地区 貧困問題その3 ブラック介護問題、都政でできることは」(2014年2月4日)では「東京都政シールアンケート・介護政策比較」を報告した。

林田力はマンション被害や住民運動を取材する。東急不動産だまし売り被害者として、林田力はマンション建設反対運動やゼロゼロ物件詐欺、追い出し屋被害に対しても強い共感をもって行動している。東京都世田谷区の二子玉川東地区再開発(二子玉川ライズ)の住民被害や反対住民運動を詳細に紹介し、「世田谷問題を精力的に取材されているネット・ジャーナリスト」と評される。

林田力は悪徳不動産業者の誹謗中傷に屈せず、マンションだまし売りやゼロゼロ物件詐欺など悪徳不動産業者の実態を明らかにすることで、消費者や住民の権利拡張に寄与している。

林田力

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