『転生したらスライムだった件』
伏瀬『転生したらスライムだった件』は流行りの転生物のライトノベルである。Web小説として出発し、漫画化もされた。現代日本の会社員・三上悟は通り魔に刺されて志望したが、異世界の洞窟でスライムとして転生した。転生物では転生者がチート的に大活躍することが定番である。ところが、本作品では最弱のモンスターであるスライムに転生したところが意表を突く。とはいえ本作品は加瀬あつしのヤンキー漫画『カメレオン』のように弱者が幸運と綱渡りで成り上がる話ではない。チート的な大活躍という転生物の王道は押さえている。それはそれでメアリー・スーのような御都合主義の危険があるが、本書の主人公チート化は筋が通っている。
主人公は地道に色々なものを吸収して能力を高めてチート的な存在になった。これはドラゴンクエスト的である。ドラゴンクエストは同じモンスターを何度も倒すというルーチンな作業を繰り返して経験値を増やし、レベルアップする。一発逆転のギャンブルとは対極であり、健全なゲームである。
また、ドラゴンクエストにはメタルスライムという経験値が莫大なモンスターがいる。本作品のスライムのように色々と吸収した存在なのだろうか。
『やまなし』
宮沢賢治『やまなし』は幻想的な童話である。「クラムボンはわらったよ。」などの表現が印象に残る。リズム感のある文章である。東北という土地がリズムを生んだのだろうか。日本語でリズム感と言えば五七調や七五調が古代の和歌からの伝統である。近代詩でも五七調や七五調で始まっている。伝統的な五七調や七五調ではない普通の言葉でリズムを生むところに近代文学の到達を感じる。
『やまなし』は小学校の教科書にも掲載されている。そこで本作品を知った人も少なくない。今から読むと小学生で理解しきれる作品ではない。小学生なりの理解で良いだろう。因みに私はどうしても山梨県のイメージが浮かんでしまう。
宮沢賢治にはユーモアがある。苦しんだ人というイメージがあるが、それだけではない。宮沢賢治を「雨ニモ負ケズ」から知った人と「やまなし」から知った人では印象が変わる。かつて「雨ニモ負ケズ」を暗誦した世代が存在した。そのイメージがあると宮沢賢治を説教臭く、道徳臭く感じて敬遠する人も出てくる。
『メガバンク絶滅戦争』
波多野聖『メガバンク絶滅戦争』(新潮社、2015年)はメガバンクを舞台とした経済小説である。メガバンク乗っ取りの陰謀が描かれる。文庫版では『メガバンク最終決戦』と改題され、テレビドラマ化された。本書に登場する企業名は架空のものであるが、現実の企業への当てはめは容易である。舞台のメガバンク東西帝都EFG銀行は明らかに三菱東京UFJ銀行がモデルだろう。メガバンクの中も様々な立場の人が様々な思惑を抱えており、非常に生々しい作品である。
本書の登場人物の多くは何らかの恨みを抱えている。会社への裏切り行為をするような人物も少なくないが、過去の恨みを踏まえれば断罪できない。日本を米国に売り渡す行為でさえ、日本社会への復讐として理解できる。
本書で描かれた経済人は良くも悪くも生き生きとしている。著者の金融実務経験が活かされている。しかし、政治に翻弄されるところが、悲しいところである。日本経済は政治の僕であることを抜け出せないか。それが日本経済の現実なのか。
本書では官僚の無責任さ、自己保身が描かれる。腹立たしい限りである。ところが、物語は一人の官僚の問題にクローズアップされ、主人公サイドは別の官僚に助けられてもいる。官僚体質の問題は曖昧になってしまった。
また、乗っ取りの過程で農協系金融機関が善玉的な参加者として登場する。本書では農協系金融機関の責任者が農協人らしからぬ金融人になっており、それ故に可能である。しかし、農協改革が叫ばれているように古い体質が問題になっている中で、メガバンクの争奪戦に参加することに現実性があるか。著者が農林中金出身であるためのリップサービスと見るべきだろう。
本書は登場人物の一人が「It’s a small world.」と言った様に登場人物の間には色々な接点がある。それによって物語が上手く回る。ここは話の筋書きが練り込まれていると評価できる。一方で現実の企業乗っ取り事件と比べると御都合主義になるだろう。
本書では太平洋戦争で父親が戦死し、日本人に敵意を持つアメリカ人が登場する。彼の口癖はSneaky Japanese(卑怯な日本人達)である(173頁)。Sneaky Japでない点は上品である。悪口を言う時は政治的正しさPolitical Correctnessを考えないものではないか。それとも米国のエスタブリッシュメントは悪口でもPCを考慮することが染み込んでいるのか。
本書はグローバリゼーションがテーマとなっている。グローバリゼーションにはステレオタイプな批判があるが、本書では中小企業を支える情の融資を是とする行員が、そのような行風を取り戻すためにヘッジファンドに内部情報を流した(207頁)。グローバリゼーションを悪というような単純なものではない。
『貘の耳たぶ』
芦沢央『貘の耳たぶ』(幻冬舎、2017年)は新生児が取り替え事件を描いた小説である。本書は二部構成であり、それぞれの章で視点人物が変わる。タイトルの『貘の耳たぶ』は最後にならないと分からない。本書は出産直後の母親が自分の赤ちゃんを別の赤ちゃんと取り替えるというショッキングな出来事を扱っている。これは通常起こらない異常な事件である。しかし、本書から先ず感じたことは子どもを生み、育てるという当たり前とされることが非常に大変ということである。病気でもないのに病院に行く。これだけでも普通ではない。さらに赤ちゃんを育てることも大変である。
日本では少子化が大きな社会的課題になっている。子どもを生みにくい、育てにくい社会的な仕組みは変えなければならないが、「このような大変なことはしない」という選択する人が出てくることは当然であるし、それはライフスタイルの多様性として尊重されるべきである。
赤ちゃんを取り替えた母親の動機に合理性はない。しかし、そこまで追い詰められた状態であるということは理解できる。そのために、母親を責める気持ちにはならずに読み進められる。第二章は取り替えられた母親が視点人物である。彼女は保育士であり、子どもの扱いには長けている。傍から見ると立派な母親に見えるが、本人は悩んでいる。自分の責任でないことまで自分のミスではないかと悩む。この深刻さは社会と当事者のギャップがある。
取り替え事件の起きた病院の対応、代理人弁護士は模範的である。ここは非現実的に感じられた。現実は都合の悪い事実を隠そうという意思が働き、母親は病院への対応にエネルギーを注がざるを得なくなるだろう。本書は二人の母親の葛藤を描くことが主眼であり、病院との対決というストーリーは余計である。病院側を誠実にした構成は正解である。
本書はどのような結末になるのか予想ができなかったが、落ち着くところに落ち着いたという感がある。欲を言えば視点人物を戻して、彼女が何を考えているか知りたいところである。しかし、それをすると重たくなり、読後感が悪くなるだろう。実際、第一章は重たくて中々読み進められなかった。
『私はサラリーマンになるより、死刑囚になりたかった』
松本博逝『私はサラリーマンになるより、死刑囚になりたかった』(ロックウィット出版、2017年)はニートを主人公とし、ニートの心理構造を描いた小説である。主人公はニートであって、引きこもりではない。ニートと引きこもりは混同されるが、同じではない。主人公は家から出られない心理的制約がある訳ではない。引きこもりではないのにニートである点は感情移入しにくい要素である。序盤は会社人間(社畜)の生き方に適応できないニートの意識が語られる。ここは理解できる。私も子どもの頃の「モーレツ社員」「24時間働けますか」という労働環境に嫌だと思ったものである。だから主人公がブラック企業を否定する点(97頁)は心地よい。「サイレントテロ」という言葉があるが、ニートこそ日本の会社主義を打破する思想と考えたくなる面もある。
一方で主人公に感心できない面は酒で紛らわせていることである。二次元の世界に入り浸る現代のニートとギャップを感じる。働かず昼間から酒浸りになる人生の落伍者は過去にも一定数存在した。主人公は、それと変わらなくなる。主人公自身、そのような自覚を有している(98頁)。
さらに悪いことに主人公は「酒で満足できなければ、薬物」というルートも見据えている。それは「便所の底の底、つまり下水管の糞だめへと転落する事になる」と理解しているが(99頁)、危険ドラッグ(合法ドラッグ)を否定しきれない弱さも持っている。このようなものがニートならば、会社主義に対するオルタナティブな生き方として評価できない。
この点で私は主人公に対して否定的であり、本書をニート論として位置付けるならば、それが本当のニートではないと主張したくなる。しかし、これは物語として読む上で本書の欠点ではない。批判できる主人公だからこそ本書のような展開があり得る。逆に共感できる主人公が本書のような結末に至る方が大変である。
『Timjinの回想録 I』
広谷雅彦『Timjinの回想録 I』(デザインエッグ社、2015年)は飼い犬を視点で書生の生活を回想する書籍である。本書は1980年代の東京が舞台である。バブル経済に向かっていった時代であるが、書生と芸者という一時代前のような物語である。戦後すぐの話としても驚かない。バブルと異なり、慎ましやかな生活である。私の中の80年代イメージからすると意外であった。話の展開として大火傷することを予想したが、見事に外れた。この点もバブルの風潮と異なり、地に足がついている。
一方で私の80年代感覚と符合する話もある。書生はサッカー部出身で、日本でのサッカーの普及に情熱を持つ。その頃の私は子どもであったが、野球よりもサッカーが身近な球技であった。マラドーナ選手の話は懐かしい。
恐らく私は野球よりもサッカーがメジャーになった初期の頃の世代であるが、その前には野球が圧倒的にメジャーな中でサッカーの面白さを語る書生らの活躍と苦労があったのだろう。この後にJリーグが発足し、日本代表のワールドカップ出場が国民的関心事になる。本書は短い一時期で終わるが、書生の人生と日本サッカーの発展の歴史がどう重なるか興味深い。
最後に表記について指摘する。本書は縦書きであるが、日付などに半角数字が使われており、それが横に印刷されてしまう。パソコンで横書きで原稿を書き、印刷は縦書きという場合に、この問題が起こりやすい。
『ニューヨークの妖精物語』
シャンナ・スウェンドソン著、今泉敦子訳『ニューヨークの妖精物語』(創元推理文庫、2017年)は妖精にさらわれた妹を姉が救出するファンタジー小説である。姉の話と妹の話が交互に入れ替わる。姉の話は概ね現代のニューヨーク、妹の話は妖精界を舞台とし、飽きない。ファンタジー的な話も刑事物風の現代劇も楽しめる。姉は周囲から見ればスーパーウーマンであるが、本人にも分からないこと、間違えて認識していたことがあり、物語の先が見えない。本人の成長物語にもなっている。
妖精界は自然が荒廃しつつあるが、幻影によって明るくて色鮮やかな世界に見せている。妖精は厳しい現実を見たくないためである(361頁)。本書は妖精を人間の道徳が通用しない異質な存在と描くが、むしろ身勝手な人間臭さを感じた。
妖精界に囚われた人間は自我をなくしてしまう。妖精の差し出した飲食物をとると、そのようになる。これは分かりやすい。それだけでなく、妖精に服従している振りをしているだけでも、抵抗を止めたことになり、精神的に支配されてしまう(140頁)。これは恐ろしいことであるが、意外とリアリティーがある。ブラック企業に面従腹背しているつもりが、いつの間にかブラック企業体質にどっぷり浸かってしまうことはあり得る。
本書は大団円と言えるようなハッピーエンドではない。未解決の問題が残る終わり方は物語の結末としては不満が残る。それでも本書では妖精界から人間が帰還する大変さを描いており、簡単に解決できないことにはリアリティーがある。これは続編で描かれるとのことであり、それに期待したい。
『ルネサンスの偉大と退廃』
清水純一『ルネサンスの偉大と退廃 ブルーノの生涯と思想』(岩波新書、1972年)はジョルダーノ・ブルーノを中心として、十六世紀のイタリア・ルネサンスの円熟と衰退を描く書籍である。十六世紀のイタリアの衰退の要因は都市国家が分立し、外国軍の侵攻に統一国家として対抗できなかった点にある。しかし、だからダメであったとは言えない。イタリアでルネサンスが花開いた理由は都市国家が分立し、絶対的な統一権力のない自由さがあったためである。ルネサンスは文芸復興と訳される。古代ギリシア文化の復興を目指した。その古代ギリシアもポリス(都市国家)が分立し、絶対的な統一権力がなかった。
ブルーノについては、遍歴が語られる。著者はブルーノの研究者であるが、大絶賛という訳ではない。アイロニーを込めて遍歴を描いている。ブルーノの人生は宗派対立の激しい時代に翻弄された面が大きいが、彼自身にも高慢なところがあった。それが自己の自由は他人の自由の尊重なくしてはあり得ないという境地に到達する(195頁)。これはドラマチックな物語である。
また、本書は魔術や錬金術の重要性も述べている。「ルネサンス時代においては、当時の人々の心を真剣に捉えた課題で、逆に言えばこの理解なしにルネサンス思想の解明は不可能であるとも考え得るほどの重要性をもったものなのである」(106頁)。偏狭な科学万能主義に陥っていない点に好感が持てる。そのようなものは下らないと考えることと当時の人々がどのように考えていたかは別問題である。
『たたみかた 創刊号 福島特集』
『たたみかた 創刊号 福島特集』(アタシ社、2017年)は「30代のための社会文芸誌」と銘打った新しい雑誌である。ステレオタイプな社会派の言説とは異なる話を読むことができる。正しいことをしていると思っている人々の運動の独善性に疲れた人にとっては心地良い。本書から感じることは「私」を重視していることである。石戸諭さんは集団を主語にして論じるのではなく、「なぜ自分はそう思うに至ったか」を考えることを重視する(29頁)。左翼的な階級的利益の発想や学生運動的な「我々は」という演説に対する強烈なアンチテーゼである。
これは私も実感を持って納得できる。私は社会問題について幾つか意見を述べているが、最も共感を得られる内容は自分が経験したマンションだまし売り被害に基づいた主張である。これを踏まえて、「だから私は、こう思う」と述べれば、私の結論を支持しない人でも、私がそのような考えを持つことは理解されることが多い。
私重視は他にもある。三根かよこ編集長は冒頭で「『たたみかた』では、主体を「私(あなた)」に置いて、話を進めていく」と宣言する。また、江川信吾さんは「外に目を向けて行動することも大切だけど、身近な人や物を大切にして、自分自身が満たされることの方が先なのかもしれない」と述べる(42頁)。
このような私ファーストが自然と出てくることは心強い。私は日本社会を息苦しくする原因は集団主義にあると考える。右翼的な「滅私奉公」と左翼的な「一人は皆のために」が両サイドから個性を抑圧する。だから右翼も左翼も解決策にならない。日本的な集団主義の息苦しさを打ち破るものは個人主義である。
本書は「30代のための社会文芸誌」である。ロスジェネ世代の私から見ると異なる世代であることを感じる。ロスジェネ世代は、その名の通り、就職氷河期という世代間不公正が直撃した世代である。だから根底には社会への怒りをふつふつと持っている。
それは上の世代の反体制や反権力とは異なる。むしろロスジェネ世代には上の世代の反体制や反権力も一緒の体制内批判派であり、既得権擁護の議論に映る。だから『たたみかた』が古い保守と古い革新のイデオロギー対立のようなものから距離を置くことは心地良い。
一方で不正に対する怒りまでも希薄なように感じられる。それが冷静さや理性的と評されるならば、ロスジェネ世代と比べると恵まれているように感じられる。
『ノスタルジック・オデッセイ 失われた愛を求めて』
重久俊夫『ノスタルジック・オデッセイ 失われた愛を求めて』(明窓出版、2017年)は西田幾多郎の哲学を下敷きにした小説である。前半は普通の恋愛小説的である。後半は哲学の解説色が濃くなる。最後まで読むと、タイトルの『失われた愛を求めて』が意味を持つ。前半は昭和の東京が舞台である。それほど古い時代ではないが、一時代前の感がある。登場人物がSFの構想を話すが、そこでは米ソの核戦争が起きる。人類が宇宙に進出する未来を想像しても、ソ連が21世紀を待たずに崩壊する現実は考えられない。冷戦時代に生きた人々の時代制約を感じさせる。
物語は、ある記憶が操作されることによって成り立っている。これは哲学をテーマとした物語としてアリなのか考えさせられる。私が私であることの由縁は意識の同一性や連続性にあるのではないか。それがなくなるならば哲学の議論も成り立たなくなるのではないか。一方で、そのような発想自体が自我を中心としたデカルト的な一時代前の発想かもしれない。
『ダライ・ラマ自伝』
ダライ・ラマ著、山際素男訳『ダライ・ラマ自伝』はダライ・ラマ十四世の自伝である。その仏教思想は深い。その慈悲は人間だけでなく、動物にも向けられている。「生前動物を虐待してきた人間は来世には、動物を労る心をもたない人に飼われる犬になって生まれるかもしれない」(87頁)。日本のペット引き取り屋など動物虐待者に聞かせたい言葉である。本書を読んで感じたことは、チベットは中国とは別の国ということである。少なくともチベット人は、そのような意識を持っている。冊封体制下にあるという意識さえない。本書が81頁以降で引用する唐と吐蕃の長慶会盟は対等な二国間の盟約であった。文化的には南アジアとの関係が深い。
難しい問題は清朝の評価である。チベット人から見れば清朝がチベットを版図としたという点にも異議があるだろうが、中華民国や中華人民共和国が清朝を継承する国家と言えるかという問題もある。清朝は統一国家ではなく、満州族の国家やモンゴル民族の国家、漢民族の国家を束ねた同君連合ではないかという見方もある。史料の多くは漢文で書かれており、どうしても中国中心の歴史観を持ってしまうが、中央アジアの視点の研究も深める必要があるだろう。
かつて日本は民族自決を悪用して満州国という傀儡国家を建国した前科がある。そのために日本政府がチベット問題で突出することは逆効果になりかねない(林田力「チベット問題に日本が消極的であるべき理由」PJニュース 2010年10月2日)。それでもダライ・ラマの提案である和平項目案(382頁)は魅力的である。チベットを平和地帯とすることは中国とインドの軍事的な緊張を弱めることができ、国際平和に貢献する(384頁)。
何より被占領者にとって軍隊の撤退は前提条件になる。「チベットにおける強大な占領軍の存在は、チベット人の嘗めてきた辛苦と抑圧をつねに思い起こさせる」ためである(385頁)。これは全ての被占領者に共通するものである。軍隊を駐留させなければ統治できないならば、そこでは統治の正統性は失われている。
『果鋭』
黒川博行『果鋭』(幻冬舎、2017年)はパチンコ業界の闇を暴く小説である。パチンコ業界が警察の利権になっている実態を描く。ギャンブルについて問題意識を持つならば、先ずパチンコを規制しなければ始まらないと思わせる。カジノの是非が政治の争点の一つになっているが、パチンコに触れないカジノ反対論は響かない。逆にカジノ容認論でもパチンコを含むギャンブルを今よりも規制する制度設計になるならば、それは社会を良くすることにつながるかもしえない。
本書ではカジノならばディーラーという人間相手のために勝つこともあるが、パチンコはコンピュータで制御されており、絶対に勝てないという登場人物の感想がある(423頁)。ギャンブルが社会悪であるとして何から規制しなければならないかについて考えさせられる。
本書の帯には「クズどもを蹴散らす痛快悪漢小説」とあるが、勧善懲悪のカタルシスはない。主人公側は正義とは言えない。巨悪を滅ぼすことを目的としていない。それが逆に現実の深刻さ、救いがたさを示している。物語は全て主人公側の思い通りに進む訳ではなく、ヤクザが意地を通した面もある。その意味では御都合主義ではなく、物語のバランスが取れている。この点は同じ著者の小説『繚乱』と重なる。
主人公ら二人組は不祥事で辞職を余儀なくされた元刑事である。この二人のように元警官が不祥事で辞めた後に警察官としてのスキルを使って裏の仕事をすることに恐ろしさを感じる。本書の二人組は悪人の方に向かっているが、市民を恐喝する方に向かう輩も出るだろう。何しろ不祥事で辞めらせられるような元警官である。
本書では主人公らがパチンコ店長を恐喝する。パチンコ店長が「あなたたちのやっていることは恐喝だ」と抗議すると、「恐喝すなわち犯罪やない。あんたが警察に被害届を出したら捜査がはじまるんや」とうそぶく(181頁)。不良警察官は自らの犯罪逃れにも長けている。私は警察不祥事に対して厳しい処分を求める立場であるが、ただ警察官を辞めさせるだけでは十分ではない。興信所など特定の業界への再就職禁止も必要だろう。
『仕事が速い人はどんなメールを書いているのか』
平野友朗『仕事が速い人はどんなメールを書いているのか』(文響社、2017年)は仕事を速く進めるためのメールの書き方を解説した書籍である。著者は、これまでに1万通を超えるビジネスメールを添削してきたという。本書から最も感じたことはパソコンのメールと携帯電話のメールは全く異なるということである。携帯メールの感覚でメールを書くと大失敗する。ここは押さえておかなければならない。
現実にメール文言の無礼を咎められた人が、携帯メールの感覚で書いたとの言い訳にもならない言い訳で自己正当化を図り、コミュニケーションに失敗した例を知っている。自分のメールが雑であることに対し、携帯メールの感覚で返信したからと正当化する。相手に雑な文章を送りつけることは、相手に敬意を払わない失礼な態度である。ところが、その種の自覚さえ存在しない。
本書の目的は仕事を速くすることである。メールを速く書くことも価値の一つであるが、それが目的ではない。メールを雑に書いてよいということではない。この点でも携帯メールの感覚でメールを書いてはならないことが分かる。
この携帯メールとの相違はメール送信者だけでなく、メール受信者の側も心得るものである。新着メールが届いたというアラートにすぐに反応する人はメールの処理が上手くない(22頁)。仕事が速い人はメールをチェックするタイミングを自分でコントロールし、返信するタイミングも自分の仕事に合わせて一定のルールを設けるという(23頁)。
私は1990年代からパソコンでメールを利用している。当時のインターネット接続形態はダイヤルアップであり、インターネットへの接続時間は限られていた。ネット接続時にメールをまとめて受信し、オフラインでメールを読む。必要なメールには返事を書き、次の接続時(翌日または翌々日など)に送信する。このように私にとってメールは完全に非同期な世界であった。
携帯電話の利用は、この後である。そのために携帯メールとパソコンのメールが異なることは自然なことである。これに対して携帯電話の利用が先の人々は、携帯メールの延長線上でパソコンのメールを考えてしまうという陥穽に陥る可能性がある。携帯メールとは異なる特性を活かすことが仕事を速く進める一歩になると感じた。
『旧神郷エリシア 邪神王クトゥルー煌臨!』
ブライアン・ラムレイ著、夏来健次訳『旧神郷エリシア 邪神王クトゥルー煌臨!』(創元推理文庫、2017年)はSFファンタジー小説である。クトゥルー邪神群との最終決戦である。タイタス・クロウ・サーガの完結編である。タイタス・クロウ・サーガと銘打っているが、本書の実質的な主人公はタイタス・クロウよりも、ド・マリニーがふさわしい。本書は神話的なファンタジーの世界観であるが、科学技術が発達した世界でもある。優れた魔術師が有能な数学者でもある(317頁)。科学が進むと魔術と変わらないように見えることは面白い。19世紀的な科学万能主義からのオカルト排斥は時代遅れである。
量子力学の不確定性原理を知ったならば、物理法則で説明できないことは存在しないという教条的な科学万能論こそが非科学的になる。昭和の科学少年はラジオを分解して構造を確認したかもしれないが、現代のスマホなどはブラックボックスであることを問題なく受け入れられている。
哲学者のカントは他人を単に手段として扱ってはならないと指摘した。主神クダニドがド・マリニーに期待したことは、カント流の倫理観では許されないことであった。彼を手段として扱うことにであった。神話的な神は人間臭く、倫理的に完璧でないことが多いが、それにしても褒められたものではない。本書では事前にクロウに相談し、彼に許しを求めているところ(60頁)が救いである。主神に恥じない倫理性を発揮している。
『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』
三島由紀夫『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』(日本教文社)は三島由紀夫の対談集である。小汀利得、中山正敏、鶴田浩二、高橋和巳、石原慎太郎、林房雄、堤清二、野坂昭如、村上一郎、寺山修司との対談である。三島由紀夫が割腹自殺をした年に出版された。現代から振り返ると、石原慎太郎との対談が興味深い。三島は個を超えた大きなもののための自己犠牲を肯定するのに対し、石原は自由に価値を置き、個人主義的である。ここから三島は良くも悪くも本物の右翼、石原はエセ右翼という見方が出てくるかもしれない。
特に中央卸売市場移転問題など石原都政のデタラメぶりが明らかになりつつある現在から見ると石原の自由や個人主義は自分の利益だけではないかと見ることができる。特に政治家の石原は国民には愛国心を求めるイメージがある。国民には奉仕を求めながら、自分は自己の利益を追及する。これは御都合主義である。
一方で三島のような考え方を本物と持て囃すことにも躊躇する。日本社会の問題の第一は集団による個の抑圧と考えるためである。むしろ、石原のような考え方に集団主義的な村社会からの脱却の道筋がある。他者の自由を尊重せず、利己主義にしか見えない石原が自由や個人主義を語ることは、自由や個人主義にとって不幸なことであるが、それは自由や個人主義の本質が損なわれるものではない。
左翼左派リベラルの側にも三島の思想を筋の通った右翼思想と評価する傾向がある。それは左翼左派リベラルも天皇のための滅私奉公とは言わないとしても「一人は皆のために」と個を抑圧する集団主義で相通じるところがあるためではないか。太陽族のような身勝手なヤンキーの自由ではなく、他者の自由も尊重する地に足ついた個人主義を展開する必要を感じた。
『百億の昼と千億の夜』
光瀬龍『百億の昼と千億の夜』は、壮大なスケールのSF小説である。文明や神、終末、宗教を扱う。萩尾望都により漫画化された。冒頭では古代アトランティスの繁栄と滅亡が描かれる。アトランティスは神の怒りによって滅亡したとされるが、神の方が理不尽である。一方でアトランティスの人々の神への姿勢は無批判に従うものではない。神の命令でも住み慣れた土地から離れることには抵抗する。現代人的である。
アトランティスの話の後は場面が変わり、シッタータやナザレのイエスの話になる。仏教哲学の深遠さを感じた。それに比べるとキリスト教の思想は、おとぎ話のような印象を受ける。但し、ここには仏教よりキリスト教に馴染みがない日本人のステレオタイプが反映されているだろう。本書では理不尽な神の仕打ちに怒り、抗う人を主人公サイドに位置付けているが、旧約聖書ヨブ記を深めた人ならば神の理不尽に従うことも積極的な意味を見出だすかもしれない。
『老いない体』
寺門琢己『老いない体』(幻冬舎)は整体師による新書である。健康格差という言葉があるが、見た目年齢と実年齢の格差も大きい。今や髪の毛で男性の年齢を推測すると大変なことになる。本書は老いない体の秘訣を説明する。本書は冒頭などで老化の実態を説明する。老いない体を目指すためには老化のメカニズムを知る必要がある。それは確かに重要であるが、少し読んでいて気持ち悪くなるところもあった。
健康は多くの人の関心事であり、様々な書籍が出ているが、本書にはユニークな指摘がある。例えば本書はランニングよりもウォーキングを推奨する。走ることは膝の軟骨への負担になる上、脳が揺さぶられて軽い襲撃を受け続けることによるダメージがある(49頁)。体を酷使することが健康法という時代遅れの精神論と無縁なところは好感が持てる。
同じようにジムに通って運動するような特別なことをしなくても、家事労働で体を動かすことが健康にいいという(84頁)。健康格差が深刻な社会問題として取り上げられる理由は所得格差と相関するためである。確かに過剰労働で健康に留意する余裕がなくなる点は問題であるが、特別な消費をしなくても健康を保つことができる点は希望である。
『国家とハイエナ』
黒木亮『国家とハイエナ』(幻冬舎)は途上国の値崩れした債権を割安で仕入れ、海外資産の差し押さえ戦術によって額面と利子を全額請求するハイエナ・ファンドを描いた作品である。小説仕立てであるが、現実の出来事に基づいており、現実に起きた事件も描かれる。この現実ベースという点が本書を読んでスッキリする作品にしていない。小説ならば悪人が不幸になるだろう。そのようにならないところに、この問題の複雑さがある。ハイエナ・ファンドは悪であるが、その規制が発展途上国の権力者を助けることにしかならないという側面がある。また、社会主義的な政権から市場主義的な政権に交代し、市場ルールを受け入れるようになってから解決に進んでいる。これは発展途上国の姿勢が悪いというハイエナ・ファンド側の主張を裏付けることになる。
本書を勧善懲悪の視点で読むことを難しくさせる要素としては、憎むべきハイエナ・ファンドも人間として描いている点がある。ハイエナ・ファンドのオーナーは息子から自分と全く異なる価値観をカミングアウトされる。最初は狼狽したものの、その問題について猛勉強し、強力な理解者になる。法改正のロビー活動まで始める。
日本には迷惑勧誘電話商法や貧困ビジネス、ペット引き取り屋など悪徳商法は数限りなくあるが、それらの経営者に彼のような異なる価値観に対する柔軟さはないだろう。もっと頭の固い卑小な人間である。客観的な被害の大きさとしてはハイエナ・ファンドの方が上かもしれないが、日本の悪徳商法の方が人間的に告発したくなる。
本書は世界を舞台にした作品であるが、日本人も登場する。その一人は東京都江東区の大島に住んでいる。商店街など彼女の住まいの周辺は詳細に描かれるが、私は江東区民のために、その正確さが分かる。江東区の街並みは話の本筋とは関係ないが、そこにも正確さを追求する本書は見事である。
『ヒール 先生はいつだって上田馬之助だ!』
Simon1973『ヒール 先生はいつだって上田馬之助だ!』(2016年)はプロレス論である。タイトルには上田馬之助とあるが、上田馬之助論は最終章だけで、力道山からのプロレスが紐解かれる。本書はプロレス論であるが、日本社会論になっている。プロレスから日本社会を論じている。本書の日本社会論は、日本の組織の閉鎖性、恥の文化など正統派的な内容になっている。たとえば以下の記述である。
「この国の組織には、価値観の「違い」を受け入れる勇気だけでなく、「違い」を生み出す実相を深く吟味するための「役割分担」も同様に存在しない。正確な理解のために、組織としての理解を最大化するために、敢えて「違い」を強調しようと試みる者は組織から疎んじられ、最終的には、排除の論理と共に「異端者」としての扱いを受けることになる」(180頁)。
その上で本書は村社会的な日本の組織を打破する存在としてヒールを挙げる。ヒールの生き方を目指す。
私も日本の組織が個人に対して抑圧的であり、それを打破する異端者を志向する点に共感する。しかし、それがプロレスのヒールであるかについては考えさせられる。どうしても私にはプロレスのヒールはストーリーの中でヒールを演じているという印象が強くなる。ベビーフェイスを輝かせる駒としてのヒールというイメージである。体制内批判派的な存在であり、本当の意味で体制打破にならないのではないか。
ヒールを演じることも大変なことであることは認める。本書が指摘するように八百長だから無価値と言うならば俳優の演技も価値がなくなる。しかし、それが体制打破の力を持つかは別問題である。ヒールにとどまる限り、体制不満のガス抜きに使われ、本当の意味の体制打破の力を弱める結果にならないか懸念がある。
この懸念にも本書は対応している。それがセメントである。体制側はブック破りのセメントを仕掛けてくる。それに立ち向かう強さがヒールには必要である。粉飾決算や産地偽装など組織人には不正への加担が求められることがあるため、このセメント論はプロレス以外の生き方として有用である(226頁)。
一方で本書は、ヒールは自分からはセメントを仕掛けてはならないと述べる(221頁)。これでは、あくまで仕掛けられた不正に立ち向かうだけである。現状の仕組みそのものが不公正な場合に体制そのものを打破する力にはならない。それでは自分の既得権が奪われることには激しく抵抗するが、現実の不合理には無頓着な既得権擁護の体制内批判派と重なってしまう。
本書と私のギャップは本書が共同体原理を信奉しているところにあると考える。本書は利他の精神で共同体にとっての善を追求しようとしている。だから体制破壊者ではなく、ブックを成立させるヒールになる。これに対して私は共同体そのものが個人を抑圧する装置であるという感覚がある。
『すごい! 時間管理術』
戸田覚『誰よりも短時間で、常に最高の成果を挙げる人の すごい! 時間管理術』(PHP研究所、2014年)は時間管理の秘訣をまとめた書籍である。著者は月20本以上の連載をこなし、100冊もの書籍を書き、余暇も楽しんでいるという。働き方改革で長時間労働の撲滅、生産性向上が課題になっている中で意義のある書籍である。印象的な指摘は「電話を使うな」である。「電話は、お互いの時間を束縛する最悪の道具だと言いたいのです」と指摘する。私も電話よりメールであり、本書の指摘は納得である。電話が互いの時間を拘束する横暴なものであることは知られるようになった。FJネクストなどのマンション投資の勧誘電話が嫌われる理由も、この点にある。
これに対してメールは時間に拘束されない。メールは非同期であるため、相手の時間に合わせる必要がなく、相手の時間を奪わない。しかし、最近は携帯メールの延長線上でPCメールを使う輩もいる。そのような輩は返事が遅いと怒り出す。それはメールの利点を喪失させるものである。メールでも相手に配慮しない横暴な輩は救い難い(林田力「電子メールの同期性と非同期性(下)」PJニュース2010年12月17日)。
本書は電話の欠点として「しかも、普通なら二人でしかコミュニケーションが取れません」と指摘する。この情報共有への欠陥も電話のマイナス面である。電話も録音すればいいと考えるかもしれないが、録音は不便である。一時間の録音を聞くためには一時間必要です。文字ならば読み飛ばして必要な箇所を探すことができる。そもそも合意のない録音はフェアではない。
『これから10年 年収が下がる人 上がる人』
松宮義仁『これから10年 年収が下がる人 上がる人―お金の不安が消える新しい働き方』(知的生きかた文庫、2013年)は年収が上がる人と下がる人の行動原理をまとめた書籍である。但し、本書は単なる金儲けを志向したものではなく、人生哲学的な内容である。無駄なことや有害なことを避ければ、利益は後からついてくるという発想である。印象的な文言に「稼げない人は、とにかく電話をかけたがります」がある。電話よりメールを好むのに電話にこだわる人がいる。これは他でも多く指摘されている。
「電話よりメールの方がはるかにありがたいのに。というか電話もらうよりメールの方が早くレスできるし、 間違いがないので確実なんだけど・・・」(『好きを仕事にする大人塾「かさこ塾」塾長・カメライター・セルフマガジン編集者かさこのブログ』「仕事ができる人ほど電話よりメール」2013年4月4日)
「電話というものは、用事があるほうのタイミングでかけるので、相手の貴重な時間を奪ってしまう可能性があります」(「デキる仕事人は、電話よりもメールを使う。ビジネスにおけるメールの役割とメールを送る際の注意点」U-Note 2015/01/29)
「電話は相手の時間を奪っていることに気づけ」(「電話は暴力!仕事ができない人ほど電話をしたがる現象について」Rabbit Punch 2015/5/29)
「わたしは電話を好みません。クライアントとのやりとりも極力メールやLINEで行います。記録が残るというのもメリットの一つですが、大きなメリットの一つが文字としての伝達です。つまり、誤解が生じやすい音情報ではなく、文字を介してのやりとりに非常に魅力を感じています」(石田修朗「わたしが電話よりメールを好む理由」『 Relax & Focus 姫路ではたらく税理士の独り言』2017年1月13日)
これらで指摘されているように電話は相手の時間を奪う横暴なものである。FJネクストなどのマンション投資の勧誘電話が嫌われる理由も、この点にある。前時代的な昭和の体育会系的な営業ならば相手の時間を奪う強引さが必要という勘違いしそうであるが、それは稼げない人の発想である。
『怪盗紳士モンモランシー2』
エレナー・アップデール 著、杉田七重訳『怪盗紳士モンモランシー2 ロンドン連続爆破事件』(創元推理文庫、2016年)はスパイ小説の二作目である。しかし、世界をまたにかけて活躍するスパイ小説とは趣が異なる。主人公は依存性薬物に手を出し、ドラッグ中毒になっているという情けない状態である。物語の序盤は主人公の依存性治療の話になる。薬物中毒者の心の弱さや禁断症状の恐ろしさが描かれる。物語の後半に入っても薬物の誘惑に葛藤する主人公の弱さが描かれる。薬物問題は一過性の過去ではなく、ずっと直視していかなければならない問題である。
主人公を治療する医師も問題を抱えている。本書は医療事故で始まる。手術する必要のない健康な人を手術して死なせてしまう(14頁)。その結果、医師は罪悪感を抱く。彼のように反省できる人ならば良いが、日本の医療過誤では、そのようには見えないことが問題である。この医者は自信喪失から回復した後にも職業倫理で悩まされる。
同じ失敗者でも医師は真っ当であるが、主人公は問題である。主人公は自らの過去を告白する。そこには無実の人に罪をなすりつけた恥ずべき過去が含まれており、それを聞いた人から思いっきり軽蔑される(192頁)。過去の窃盗には目をつぶるが、卑怯者は許さないという悪党なりの美学には一つの筋が通っている。
本書は予定調和の作品ではない。濡れ衣による自殺者や証拠なしで誘導尋問によって有罪になった人がいる。庶民から見れば大企業は金と力によって不祥事の責任逃れをしていることになるが、それもそのままである(230頁)。軽いタッチで描かれるが、人間世界の不条理を反映した作品である。
『家康、江戸を建てる』
門井慶喜『家康、江戸を建てる』(祥伝社、2016年)は現代の東京に通じる江戸の街を作った要素を技術に着目して語る歴史小説である。直木賞にノミネートされた。冒頭では江戸に将来性を見出だした徳川家康の先見性と人材抜擢の妙が描かれるが、主役は技術官僚や技術者達である。政治や戦争ばかりが歴史ではないことを示す。技術官僚の果たした役割は大きいが、その名前はあまり知られていない。当時においても石高は低かった。しかし、そこに統治の妙がある。官僚は裏方に徹してこそ上手く回る。本書でも大久保長安の死後の没落が言及される。大久保長安は技術官僚の分を越えて驕っていた。これは現代日本の官僚政治の行き詰まりも示している。
江戸幕府は各大名に江戸城の普請を命じた(天下普請)。これは大名間で競いあう形になった。加藤家と浅野家の石垣作りの逸話は本書でも言及されている。一方で本書は現場レベルでは排他的な競争関係ではなく、ノウハウを共有していたとする。死者が出るような過酷な工事では逆に競争する余裕がないという(295頁)。
全体最適のために協力しなければならないというような上からの強制なしに現場レベルで協力がなされている。ここには競争社会から共生社会に転換するヒントがあるのではないかと感じた。
『「食べ方」を美しく整える』
小倉朋子『「食べ方」を美しく整える 仕事ができる人ほど大切にしたいこと』(実務教育出版、2016年)は食事マナーの書籍である。食事マナーの奥深さを実感した。目から鱗の指摘も多い。たとえば本書は飲み会での「取りあえずビール」の風潮を否定する。人それぞれ飲みたいものがあるためである(19頁)。しかも本書は「取りあえずビール」が飲食店にも失礼になると指摘する。「メニューをしっかり読むことは飲食店に対する客側のエチケット」だからである(21頁)。
むしろ、世の中には注文をとる店員を待たせないために、取りあえず人数分のビールを注文することが店への親切になるとの勘違いがないか。考えてみれば、それはメニューを用意している店に失礼である。メニューをじっくり読んで注文することが店へのマナーとの指摘は、消費者の選択権を重視する私にとって嬉しいものである。
マナーは基本的に相手への配慮で成り立っている。たとえばナイフを置く時は刃を自分の側に向ける(85頁)。ここから文筆のマナーで追伸は失礼とされることを思い出した。追伸は手紙を書き直す手間を省くことになり、そこまで手間をかける相手ではないと相手を侮辱することになる。マナーは無意味な形式主義ではなく、具体的なマナーである。
食器やテーブルを傷つけないことは最低限のマナーである。意外なことに飲食店側にとって一番困るものは男性の腕時計という。大きくて重い腕時計がテーブルの縁に当たり、傷つくことが多いという(95頁)。食事マナーと成金趣味は全く異なる。
この手の書籍には成金趣味的なものもあるが、本書には料理の値段と品質が比例するという類の浅ましさはない。また、旧時代の作法の復権を押し付けるものでもない。むしろ市民感覚に即した内容である。たとえばストレスオフのために一人ご飯を薦めている(23頁)。一人ご飯のストレスオフがあるから、コミュニケーションの場としての食事が成り立つ。
本書は「終わりよければすべてよし」との言葉にも異論を唱えている。最後に帳尻を合わせるのではなく、自然に良い終わり方になるような進め方が大切とする(110頁)。実は私は「終わりよければすべてよし」の言葉が嫌いである。途中経過が悪ければ、それを誇りに思うことはできないためである。結果オーライが無責任体制を作り出し、後日の大失態を招いた例は枚挙に暇がない。しかし、本書のような解釈は肯定できる。
『詩人と狂人たち』
ギルバート・キース・チェスタトン著、南條竹則訳『詩人と狂人たち 新訳版』(創元推理文庫、2016年)は詩人画家カブリエル・ゲイルを主人公としたミステリー短編集である。原題は『The Poet and The Lunatics』であり、原語通りの邦題である。ゲイルが探偵役になって謎を解き明かすが、一般の推理小説とは趣が大きく異なる。普通の発想では解き明かすことができない謎を解き明かす。犯行の動機も斜め上のものである。世の中を逆立ちして見ることで真実をつかむ。非常に逆説的である。
正統派的な推理小説では犯行は壮大な復讐劇であることが多い。犯罪を正当化するものではないが、犯人にも同情できる点があり、何よりも犯人も我々と同じように憎むべきものを憎む人間であることを示している。しかし、現実の犯罪はもっと非合理な動機で動くことも多い。故に本書に逆にリアリティーを感じてしまった。
本書では狂人と表現されるが、むしろ人間らしさを感じた。その典型は「紫の宝石」である。小市民的生活に価値を見出だすことが常識人からは狂気の沙汰に見えてしまう。一体どちらが正常で、どちらが異常なのか考えさせられる。そして最後の「冒険の病院」では人を異常と決めつけることの恐ろしさが描かれる。
著者はコナン・ドイルらと並ぶミステリーの古典作家である。本書の面白さは正統派推理小説のパターンが前提としてあり、そこから逸脱しているところにあると見ることも可能である。正統派推理小説に対するメタフィクションと見ることも可能である。それを1929年という晩年の作品とはいえ、古典作家が書いてしまうことに巨匠の引き出しの大きさを感じる。
『2010年宇宙の旅』
アーサー・C・クラーク著、伊藤典夫訳『2010年宇宙の旅』(早川書房、1984年)はSF作品の金字塔『2001年宇宙の旅』の続編である。本書は1982年に刊行された。2010年を追い抜いた現代で読むと20世紀の作品としての時代制約と、それにもかかわらず新しさを見出すことができる。まず人類は月に一度行ったきりである。そのアポロ計画でさえ捏造説が流布している。木星有人旅行は夢のまた夢という感覚がある。また、本書では未だにソ連が存在し、米ソ二大国時代になっている。この点は20世紀のSF作品と現実の最も大きなギャップだろう。
一方、知性を持つコンピュータHALは、作品刊行時は遠い未来の話に聞こえたが、近年の人工知能や機械学習の発達によって現実味を増している。物語では登場人物がHALに対して正直に話すべきと主張する。「われわれが知るかぎりの真実をあらいざらい話すことです。嘘はいかん。半面だけの真実も。これは同じくらい始末がわるい」と語ります(297頁)。
私は半面だけの真実を伝えることが嘘を伝えることと同じくらい悪いとの指摘に全面的に同意する。利益となる事実を説明されたが、不利益事実を説明されずにマンションをだまし売りされた経験があるためである(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。
人間に対するように人工知能への対処を求める主張に面白さを感じた。間違ったインプットからは間違ったアウトプットが出てくるものであるから、人工知能に正しいインプットを与えることは機械への対応としても正当である。
本書の未来予測が当たっているものもある。「この四半世紀のうちにタッチ・パッドが全面的にボタンに取って換わってしまった」とある。続けて「しかし必ずしも万能というわけでもなく、カチリという小気味よい音とともに、動作したことがはっきりとわかる装置も、要所要所で役立っている」と書く(305頁)。この指摘はスマートフォンやタブレットが普及する一方で、キーボードはなくならない現代と重なる。何気ない描写であるが、本書が優れたSF作品であることを実感した。
『緑の資本論』
中沢新一『緑の資本論』は貨幣を中心に据えた『資本論』を、一神教的に再構築した書籍である。著者は宗教学者であるが、本書の射程は経済社会全体に及ぶ。本書はキリスト教とイスラームは同じ一神教であるが、その経済思想が異なると主張する。キリスト教は三位一体説によって、増殖を容認し、資本主義と極めて親和的であると主張する。プロテスタントの思想が資本主義を推進する基盤になったとのマックス・ウェーバーの主張は有名である。それ以前からキリスト教には資本主義と親和的であったとの主張は興味深い。
これに対してイスラームは唯一神信仰を徹底するために利子を厳禁する。このためにイスラームは資本主義批判の思想を有していると主張する。本書は911同時多発テロ事件の衝撃を受けて執筆されたものである。そのためにキリスト教世界とイスラーム世界のギャップを理解する上で優れている。しかし、テン年代後半の2016年から振り返ると、本書も時代制約を免れないという思いがある。
たとえばドバイの繁栄を見れば「イスラームは資本主義を嫌悪し、自分たちの世界にそれが侵入してくることを、重大な悪ととらえるだろう」とは言えないのではないか。それどころか、イスラーム原理主義も経済政策は新自由主義と親和性がある。原点に戻るという意味での原理主義であるサラフィー主義は夜警国家的である。
イスラーム原理主義勢力としてはハマスやムスリム同胞団が有名であるが、それらからイスラーム原理主義を論じることは正確ではない。ハマスやムスリム同胞団は教育や医療、福祉などの活動を熱心に行う点で原理主義の中では異端であるためである。「ムスリム同胞団は、国際共産主義運動のイスラム版とでもいうべき国際政治運動」との指摘まである(田中宇『田中宇の国際ニュース解説』「プーチンとトランプがリビアを再統合しそう」2016年12月8日)。
原始キリスト教団と共産主義の類似性は納得できる。しかし、それと同じものをイスラームにも見出せるかは、もっとサラフィー主義を研究する必要があるように思える。あくまで資本主義対反資本主義の枠組みで考えるという話ならば、冷戦時代の思考から抜け出せない時代制約を感じてしまう。
『天空の標的2 惑星ラランド2降下作戦』
ギャビン・スミス著、金子浩訳『天空の標的2 惑星ラランド2降下作戦』(東京創元社、2016年)はSF小説である。主人公はサイボーグ化された兵士で、敵支配惑星ラランド2への潜入偵察と破壊工作という困難な任務を命じられる。タイトルや表紙イラストからは降下作戦がメインのように見えるが、実はそれほどでもない。本書は物語途中の巻であり、全体ストーリーの方向性は見えない。本書の世界では人体がサイボーグ化されている。正直なところ拒否感がある。一方で現代でも義肢などによって救われている人々がおり、頭ごなしにサイボーグ化を否定することはできない。他人の臓器を用いる臓器移植の方がサイボーグ化よりも残酷と見ることもできる。
衝撃的な描写は小惑星の鉱山地帯である。大企業が労働者を搾取している。前近代的な鉱山労働者のようなイメージである。宇宙空間は、そのままでは人が生きていくことはできない。生活空間さえ企業が提供したものになる。だから企業の横暴も増す。何しろ反抗的な労働者は宇宙空間に放り出される。労働者は放射線を浴びて健康を損なう。これは原発作業員と重なる。
私は土建利権や官僚支配を打破するために新自由主義思想を評価しているが、本書のようなSF小説を読むと新自由主義の行き着く先に恐怖を覚える。古典的なSF小説ではディストピアは全体主義の管理社会であった。それは現実社会への警鐘であり、だからこそ私は国家権力の縮小を主張する新自由主義に共感するところがあった。しかし、本書のような新しいSF小説を読むとディストピアが変わってきているのではないかと感じる。
『長生きしたけりゃ、今すぐ朝のパンをやめなさい』
永山久夫『長生きしたけりゃ、今すぐ朝のパンをやめなさい。病気にならない“朝和食”のすすめ』(PHP研究所、2013年)は和食の良さを主張する書籍である。著者は食文化研究家である。パンよりもご飯、洋食よりも和食が健康に良い。米を粒で食べるご飯は脳の活性化をスピードアップする。味噌汁、納豆、豆腐、生卵、海苔、焼き魚、つくだ煮などの和食メニューも幸せ物質・セロトニンの原料となるアミノ酸やビタミン類が豊富である。
本書は和食の薀蓄も豊かである。和食は日本人が過去より受け継がれてきた文化である。稲作民族の日本人は、麦よりも米の方が適している。日本には米でスタータスを定めた石高制というユニークな歴史を有している。
米という自給可能な立派な主食がありながら、減反してまで他国でとれた小麦を主食とすることは愚かしい。医療は進歩したとされるが、日本人の健康レベルは悪くなっているように感じる。そこには欧米型食生活の影響もあるだろう。
本書のメインタイトルは『パンをやめなさい』であるが、どちらかと言うと趣旨は「パンがダメ」よりも「ご飯が良い」である。しかし、フォーブス弥生著、稲島司監修『長生きしたけりゃパンは食べるな』(SBクリエイティブ、2016年)のようにパンの害を正面から説く書籍も登場している。共に食生活をパンから米にシフトしたくなる書籍である。
『長生きしたけりゃパンは食べるな』
フォーブス弥生著、稲島司監修『長生きしたけりゃパンは食べるな』(SBクリエイティブ、2016年)はパン食が健康を害すると指摘する衝撃的な書籍である。タイトルの通り、パンを食べないことを提唱する。ご飯に比べるとパンは手軽なイメージがあり、パン食を好む人もいるのではないか。しかし、原因不明の体の不調はパン食が原因かもしれない。小麦に含まれるタンパク質「グルテン」は脳に炎症を起こし、腸に小さな穴をあけてしまう。パン食によってグルテンを大量に摂取することになる。そこで本書は小麦抜き生活「グルテンフリー」を提唱する。
現代人に広がる体の不調の原因がパン食にあるとの指摘は納得できる。日本のパン食普及は敗戦後である。アメリカ産小麦の輸入国にするための陰謀論まである。パン食の普及と並行として、慢性的な体の不調も現代人に見られるようになった。
恐ろしい点はグルテンに依存性があることである。だから一定の期間、パンなど小麦を食べることを絶つ必要がある。これは危険ドラッグなど依存性薬物の治療と同じである。逆に一定期間パンを絶つとパンを食べたいという気持ちがなくなるという。
実は食事による健康法を説く最近の書籍では依存症や中毒性がキーワードになっている。塩分取りすぎを戒める書籍では塩分には依存性があると指摘する(島田和幸『専門医が教える高血圧でも長生きする本』幻冬舎、2016年、68頁)。
糖の取りすぎを戒める書籍でも糖に脳内麻薬分泌による依存性があると指摘する(西脇俊二『難病を99%治す技術』実務教育出版、2016年、21頁)。危険ドラッグ吸引者が激辛の四川料理に病みつきになるなど薬物中毒が味覚をおかしくするとの指摘もある。中毒、依存性問題を真剣に考える必要がある。
『お金持ちのための最強の相続』
田中誠『お金持ちのための最強の相続』(実務教育出版、2016年)は相続についての書籍である。著者は相続専門税理士である。本書は駅伝式相続法を提唱する。相続を駅伝(リレー)、相続財産を「たすき」に見立てる。被相続人だけが頑張っても成功しない。残す側と受け取る側がリレーのように協力し、たすき(相続財産)を渡し続けてこそ成功すると指摘する。この指摘に共感する。相続に関する書籍は被相続人に向けたものが多い。これは相続対策を遺言書で終始させる傾向がある。しかし、相続の主体は相続人であり、現実には遺言書だけで解決しないことが多い。逆に死後初めて分かるような遺言書で相続対策できると考える方が目出度い。残す側と受け取る側双方の協力を必要とする本書の視点は正しい。
一方で相続には駅伝と違う点がある。駅伝は一人が一人に渡すが、相続は渡す相手が複数人いる場合がある。どう分けるかが問題になるし、それが相続紛争に発展する。本書は税理士が著者であり、相続税対策がメインである。「どう分けるか」は主題ではないが、それでも事業承継をする長男の総取りとさせないなどの一定の公平さを有している(49頁)。
本書は銀行や不動産業者、保険会社などの相続ビジネスの問題を指摘する。これら相続ビジネスをヤジと言い切る(第2章「「沿道のヤジ」に振り回されると資産を失う」)。正直なところ、私は相続のハウツー本に胡散臭さを抱いているが、このような記述があることは信頼できる。
相続対策の不動産経営は社会問題になっている。賃貸経営のための集合住宅の建築費が普通の建物と比べて割高であることは聞いていたが、本書は「統一されたブランドなので、市場価格の何倍もの建築費用がかかる」と指摘する(66頁)。普通の工業製品ならば規格化によって生産コストを下げる。ところが、賃貸住宅は逆になる。建築不動産業界の暗部を確認した。
『死の自己決定権のゆくえ』
児玉真美『死の自己決定権のゆくえ 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店、2013)は死の自己決定権が医療サイドによって剥奪される問題を告発した書籍である。死の自己決定権と言うと安楽死や尊厳死を求める自由として扱われることが多い。しかし、実は医療費削減という患者とは無関係な動機がある。著者は「尊厳死の法制化とは結局のところ、国が社会保障費を削減するために、高齢者、障害者、貧乏な人たちに、自らの意思で医療をあきらめてさっさと死んでください、という意図のものなのだろうか」と嘆息する(23頁)。
現実にイギリスでは「無益な治療」をしないとの名目で、患者の意識がはっきりしていて本人も家族も蘇生を望んでいるケースでも、医師が勝手に判断して治療を行わなかった事件が起きている(84頁)。
死なせる医療を制度化してしまうと医師は慣れてしまい、抵抗を感じなくなる(88頁)。この指摘は私も納得である。ただでさえ医師は多くの死を体験するため、患者の家族とはギャップがある。治療をするよりも死なせる方が病院にとって手続きが楽になるような制度設計をしてはならないだろう。
そもそも植物状態についての認識を改める必要がある。植物状態は意識がない状態ではなく、単に意思を伝えられない状態かもしれない。それを無価値な人生であると他人が決め付けることはできない。本書では足を蹴る、瞬きをする、手を握るなどの行動で意思疎通を感じた例を紹介している(110頁)。
ところが、それを「非科学的だ」と頭から否定する傾向もあるという(111頁)。量子力学の不確定性原理がメジャーになっている時代に、物理法則で説明できないことは認めないという姿勢こそ、どうしようもなく非科学的に見える。
安楽死や尊厳死を安易に認めることは弊害が大きい。一方で安楽死や尊厳死を望む人がいるならば、弊害は理由にならない。弊害が生じないような実施を模索すべきであり、弊害があるから一律禁止とすることは官僚的な思考である。
それでも安楽死や尊厳死の権利自体を認めることに躊躇がある。健康な時に安楽死や尊厳死を望んでいたとしても、その状態になったら「死にたくない」と思っているかもしれない。しかし、それを取り消す意思表示ができない。これは殺されることに近い。
林田力
林田力は東急不動産消費者契約法違反訴訟原告である。『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』(ロゴス社、2009年)や『二子玉川ライズ反対運動』シリーズの著者である。東京都生まれ。Hayashida Riki is the plaintiff Who Fought Against TOKYU Land Corporation. Hayashida Riki is the author of "The Suit TOKYU Land Corporation's Fraud: How to Win" and "The Opposition Movement Against FUTAKOTAMAGAWA Rise"
林田力は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して東京都内の新築分譲マンションをだまし売りされた。東急リバブル・東急不動産は新築マンション引き渡し後に隣地が建て替えられて、日照・眺望・通風がなくなることを知っていたにもかかわらず故意に告げなかった。隣地が建て替えられれば部屋は真っ暗になり、作業所になるため騒音も発生する(山岡俊介「東急不動産側が、マンション購入者に「不利益事実」を伝えなかった呆れた言い分」ストレイ・ドッグ2005年2月21日)。
このために林田力は消費者契約法第4条第2項(不利益事実不告知)に基づいてマンション売買契約を取り消し、売買代金の返還を求めて東急不動産を東京地方裁判所に提訴し、勝訴した(東急不動産消費者契約法違反訴訟、東京地判平成18年8月30日、平成17年(ワ)第3018号)。
判決は以下のように東急不動産の不利益事実不告知を認定した。その上で、東急不動産に売買代金の全額支払いを命じた。
「被告(注:東急不動産)は、本件売買契約の締結について勧誘をするに際し、原告に対し、本件マンションの完成後すぐに北側隣地に3階建て建物が建築され、その結果、本件建物の洋室の採光が奪われ、その窓からの眺望・通風等も失われるといった住環境が悪化するという原告に不利益となる事実ないし不利益を生じさせるおそれがある事実を故意に告げなかった」
この判決は不動産取引に関して消費者契約法4条2項(不利益事実の不告知)を適用し契約の取消しを認めたリーディングケースである(佐藤裕一「東急不動産で買ってはいけない 被害者が語る「騙し売り」の手口」MyNewsJapan 2009年9月3日)。
この東急不動産だまし売り裁判を契機として、インターネット上では東急リバブル・東急不動産に対する批判が急増した。「営業マンの態度が高慢」「頼みもしないDMを送りつけてくる」など「自分もこのような目に遭った」と訴訟の枠を越えた批判がなされ、炎上事件として報道された(「ウェブ炎上、<発言>する消費者の脅威−「モノ言う消費者」に怯える企業」週刊ダイヤモンド2007年11月17日号39頁)。
林田力は2009年7月には東急不動産との裁判を綴ったノンフィクション『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』を出版した。『東急不動産だまし売り裁判』は『別冊サイゾーvol.1 タブー破りの本300冊 サイゾー11月号臨時増刊』(2010年11月1日発行)の「警察、学会、農業……の危険な裏 告発本が明らかにした「日本の闇」」で紹介された。林田力のコメントも掲載されている。
林田力は景観と住環境を考える全国ネットワーク・東京準備会「第3回首都圏交流会」(2009年11月24日)や「もめごとのタネはまちづくりのタネ研究会」定例会(2010年2月5日)でも東急不動産だまし売り裁判を報告した。第2回「都民参加への模索」研究会(2013年5月27日)では「開発問題から考える東京都政の課題」を報告した。
都政わいわい勉強会in東部地区「貧困問題を考える その2 ブラック企業・ワーキングプアを考える」(2012年12月1日)では「東急のブラック企業問題」を報告した。「都政わいわい勉強会in東部地区 貧困問題その3 ブラック介護問題、都政でできることは」(2014年2月4日)では「東京都政シールアンケート・介護政策比較」を報告した。
林田力はマンション被害や住民運動を取材する。東急不動産だまし売り被害者として、林田力はマンション建設反対運動やゼロゼロ物件詐欺、追い出し屋被害に対しても強い共感をもって行動している。東京都世田谷区の二子玉川東地区再開発(二子玉川ライズ)の住民被害や反対住民運動を詳細に紹介し、「世田谷問題を精力的に取材されているネット・ジャーナリスト」と評される。
林田力は悪徳不動産業者の誹謗中傷に屈せず、マンションだまし売りやゼロゼロ物件詐欺など悪徳不動産業者の実態を明らかにすることで、消費者や住民の権利拡張に寄与している。

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【既刊】『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』『東急不動産だまし売り裁判購入編』『東急不動産だまし売り裁判2リバブル編』『東急不動産だまし売り裁判3』『東急不動産だまし売り裁判4渋谷東急プラザの協議』『東急不動産だまし売り裁判5東京都政』『東急不動産だまし売り裁判6東急百貨店だまし売り』『東急不動産だまし売り裁判7』『東急不動産だまし売り裁判8』『東急不動産だまし売り裁判9』
『東急不動産だまし売り裁判10証人尋問』『東急不動産だまし売り裁判11勝訴判決』『東急不動産だまし売り裁判12東急リバブル広告』『東急不動産だまし売り裁判13選挙』『東急不動産だまし売り裁判14控訴審』『東急不動産だまし売り裁判15堺市長選挙』『東急不動産だまし売り裁判16脱法ハーブ宣伝屋』『東急不動産だまし売り裁判17』『東急不動産だまし売り裁判18住まいの貧困』『東急不動産だまし売り裁判19ダンダリン』
『東急不動産だまし売り裁判訴状』『東急不動産だまし売り裁判陳述書』『東急不動産だまし売り裁判陳述書2』『東急不動産だまし売り裁判陳述書3』
『東急大井町線高架下立ち退き』『東急不動産係長脅迫電話逮捕事件』『東急コミュニティー解約記』『東急ストアTwitter炎上』『東急ホテルズ食材偽装』
『裏事件レポート』『ブラック企業・ブラック士業』『絶望者の王国』『歌手』『脱法ハーブにNO』『東京都のゼロゼロ物件』『放射脳カルトと貧困ビジネス』『貧困ビジネスと東京都』
『二子玉川ライズ反対運動1』『二子玉川ライズ反対運動2』『二子玉川ライズ反対運動3』『二子玉川ライズ反対運動4』『二子玉川ライズ反対運動5』『二子玉川ライズ住民訴訟 二子玉川ライズ反対運動6』『二子玉川ライズ反対運動7』『二子玉川ライズ反対運動8』『二子玉川ライズ反対運動9ブランズ二子玉川の複合被害』『二子玉川ライズ反対運動10』『二子玉川ライズ反対運動11外環道』『二子玉川ライズ反対運動12上告』
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